Dancing in the Yellow
3.
夜に至り、私が倒れ込むように床に就いたのは日付も変わった頃だったろうか。私の神経は昼を過ぎて恐ろしく冴え渡り、涼が帰ってからも風に踊る火の如く意識が張り詰め、怒濤のように私は土と向き合い続けた。意志の濁流を堤で御し、大海へと導くために手のひらに、指先にその全てを注いだ。まるで荘厳なオーケストラの重奏のように高揚し、身を沸き立たせ、歴代の王たちが思い描くままに民衆を仰いで国を建てていくのと同じ感覚で、私は思いのままに土に触れ、その形を具現のものにしていくことができた。一気に作業場の棚に新参者が増えていった。私は内心とても満足し、まだ高ぶっていたが、しかしもう体は疲弊し悲鳴を上げていた。研ぎ澄まされた感覚に切りつけられ、消耗しきっていた。自身の歳のことなど考えたくもないことではあったが、鉛と化す体にこれ以上の融通を期待することは出来ず、私は窘めるようにスコッチを煽り、ベッドに身を投げた。昼間、日のあるうちに涼が功績を残した洗い立てのシーツが、横たえた体に染み渡るような眠りを与えてくれる―――はずだった。
なぜだろう。アドレナリンに漬け込まれた神経がありもし得ない妄想をかき立てていた。夜が深まるのを感じ、曖昧に意識を混濁させようとする私はいつしかベッドの上に身を置いたはずなのに、その体がどうしたことか、箱の中に閉じ込められるのを知った。身の丈いっぱいに四方を仕切る木の板に阻まれ、腕も足も広げることが叶わなかった。ぼんやりと目を開けたとき、私は自身が透明なガラスの覆いが備えられた箱の中に入れられていることに気付き、不規則な振動が私と箱とを揺らし、どこかへと運ばれているようだった。私の目の前を、というよりは上に掲げられていたものであろう、街頭の光がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。阿弥陀のような市街の道を駆けゆく風の音が聞こえ、寂しげに鳴いた鳥たちの群を成して飛びゆく音も、雨だろうか、おそらくはやがて雪に移り変わっていくことを感じさせる霙混じりの雨粒が、サスペンションを軋ませ車輪を回す鋼鉄の箱の天蓋を打つ音までもが響いてくる。火を焚きつけられたように私は力づくで箱を破ろうともがいた。しかし頑丈に打ち付けられた箱の壁はびくともせず、またそれを叩き蹴りつけた音は一切外へは出て行かなかったように思えた。声を出すこともできない。狭いガラスの覆いから、車外の景色がわずかに見える。私の知る街とは思えなかった。夜だったのかもしれない。景色に見える家屋の全てがコールタールでも塗りたくられたように黒に、否、黒よりも深く重く暗い色に染まっていた。あらゆるコントラストを押し潰された家々の中で、かすかに中の明かりを思わせる光を私は目撃した。その家の前に誰かが立っている。浮かび上がるような白いドレスだった。曇らせた表情、哀しい目で、その人が棺の中の私を見下ろしている。私は必死に叫んだ。叫んだつもりだった。しかし、世界は再び闇の中に没し、何も見えなくなる。恐ろしさに耐えかねて私は目を瞑った。何も、あらゆるものを見たくなかった。見てはいけなかった。やがて車輪の音が途絶え、揺れが止まった。私はただひたすらに目を閉じて息を殺した。次に聞こえてきたのは、引き摺るような、人の足音とは思えないものがゆっくりと私を閉じ込める箱に近づき、うろうろと彷徨うように周りを徘徊する音だった。巨大なナメクジか、塊になって蠢く蛆虫が近くにいるような、吐き気を催すほど不快な足音と饐えた匂い。耐え難かった。まるで眼球をほじくり出されるような感触に、私は強制的に目をこじ開けられるのを感じた。もはや自らの意志からも離れたその眼が見たもの。それは青白く、膨れた皺を幾重にも刻みつけ、生気を一切感じさせない双眸で私に見入る、狂った能面のような者―――
奥歯が砕けるほど食いしばり、全身を鋼のように硬直させシーツをきつく握りしめて、何かを叫びかけた私が意識を取り戻したとき、そこは棺の中ではなく、私の寝室だった。天井の木目が緊張した様子で私を見下ろし、朝の冷気が淀んでいる。いつから呼吸を遮っていたのか、私は深海から釣り上げられたように萎みきった胸の中に思い切り息を吸い込んだ。窒息寸前を物語るかの如く荒い息づかいが音を忘れた部屋に染み込んでいく。凍り付いた我が身から薄氷を砕き剥がすように、生まれたての子馬よりもぎこちない動作でやっと体を起こす。全身に冷や水でもぶっかけられたかのようだった。汗の呼び水に冷酷な空気が切りつけてくるが、寒さを感じなかった。外がかすかに白んでいるのを見る。およそ普段、私が目を覚ます時間に変わりはなかった。
だが夢の中の感触が、途切れることさえなくまだ私の中に渦巻いている。不穏の気配がすぐ近くにあるという確信すらある。棺の、私の周りを彷徨いていた、あらざる者の気配だ。わずかに鼻につく匂いさえ残されているような気がする。地獄へ赴くような思いで私はゆっくりと、物音の一切を立てぬよう用心しながら寝室の扉へと向かった。意を決して戸を開き、廊下に出る。朝の明るさが差し込む廊下はただ静まりかえり、押し黙っているように思えた。慎重に、恐ろしいものを目覚めさせないような足取りでフローリングの上を進み、私はリビングに入った。
信じがたいものを、そこに私は見た。
リビングにあったもの全てがひっくり返され、収められていたもの全てが床にぶちまけられていたのだ。
「先生、先生!」
金切り声をあげて飛び込んできたのは涼だった。彼女の声がしたとき、私は作業場にいて、ぎょっとした悲鳴を聞きはしたものの、そこに駆けつける気力も奪われていた。家中を探し回った挙げ句にやっと涼が私の姿を見つけ、背中に飛びついてきても、私はよろめいただけで何の反応も起こせはしなかった。
「先生、何があったんですか? あんな、家が、めちゃくちゃに…」
「全部ひっくり返していったようだな」
魂ごと抜き取られたように呆然と家の中を回った限り、私の家の部屋という部屋のあらゆるものが倒され、中身を引っ掻き回されていた。茶碗や花瓶などの割れ物は全て割られ、庭に至っては花が踏みにじられていた。そして私の最後の希望さえも…。
私が絶望と共に見つめる先に涼も視線を送り、息を呑んだ。作業場の棚にあった作りかけの器たちが皆、床に叩きつけられ、潰されていた。ようやく乾きかけていたものは割れて飛び散り、まだ若かった土は泥のように広がっている。狂気すら感じる、私の癇癪よりも遥かに暴力的な悪意に、彼らは残らず陵辱され尽くしていた。屈み込んで潰れた遺骸の一つを拾い上げ、私は両の手で握った。
「これで、みんな、なくなってしまった」
かすれるような、弱々しい声が私の口から漏れ出る。それ以上は何も言えなかった。涼が私の背にすがりつき、きつく抱きしめ、啜り泣いた。
+ + +
後の警察が私の家に立ち入り、中を検証したところでは、およそ望むべくもなかろう金目のものには、床にぶちまけながらも一切手を付けることなく、ひたすら執念深く徹底した態度で家財の一切をひっくり返していったらしいことが告げられた。もしかしたら、奴は何かを私の家の中に求め探していたのではないか、と。涼は必死に一昨日の早朝に目撃した男の話をし、私はいつになく深い眠りのためか、気配を感じたのみで結局その姿を直に見ることがなかったと言うしかなかった。およそ情けない話であろうが、彼らもまたいくつかの報告が寄せられていたことこそ知っていても、涼が語るような男を実際に見た者はなく、断定するには至らなかった。
「先生」
呼ばれ、幾度目かに私はやっと意識を取り戻した。
「お茶、冷めちゃいましたね。淹れなおしましょうか?」
私はカップを握りしめたまま、我を失っていたようだった。
「あ、ああ…すまない」
申し訳なくカップを渡すと、涼は何も言わず新しい茶葉を用意して湯を沸かし始めた。ハーブティーが淹れられるのを待つ間に、私はタバコに火を付けて窓辺に立った。庭までもが悪意に晒された傷跡を如実に残している。
「冬牡丹が…」
「え?」
私がぽつりと呟いたのに、敏感に涼が反応した。
「冬牡丹が折られている。山茶花も」
それは冬支度の頃から涼が手を吐息で温めながら世話をしてやっと花をつけるに至った、去年から今年にかけてようやく庭に咲いた冬の彩りだった。長年放っておいた私の庭の土は、決して花が咲くのに適したものではありえなかった。それを涼は丹念に、根気強く掘り起こし肥料を蒔いて少しずつ開墾していた。初めはほとんど一切の花や草木が根付かなかった。少しずつ、少しずつ、やがて私をも巻き込んで、一昨年の冬に一度畑仕事さながらに二人で鍬を持って土を洗いざらい掘り起こし、花を植えるために煉瓦や石を並べて花壇を設けた。そうしてようやく、さらに涼の地道で熱心な世話の甲斐もあり、雑草ばかりで荒れ果てていた私の家に花が彩りを添えるようになったのだった。その苦心した花壇さえも踏みつけられ、花が土にまみれ潰されているのを私は見てしまった。
涼が窓辺にやってきて、私と同じように庭を見た。私たちは言葉もなく、ただ残された傷跡を眺めるしかなかった。しばらくして、私の隣で涼がまた鼻を啜った。
「すまなかった。私がもっと用心していれば」
「いえ、いいんです。ただ、悔しくて…」
目に涙を溜め、涼は続けた。
「先生があんなに頑張って、大切にしていた器をみんな壊されたのが、悔しいです。あんなの、ひどすぎる…」
そう言って唇を噛みしめる涼に、私は何も言えなかった。心に、大きな風穴が空いてしまったように、私の中の何かがそこからすり抜けていってしまうようだった。俯くしかなかった。
「不謹慎でごめんなさい」
唐突に涼が言った。わけもわからず、私は顔を上げた。
「でも、私はあの時、安心したんです。家に入って、中が荒らされているのを見たときにすごく怖かったんです。先生がどこにもいなくて、もしかして何かあったんじゃないかって思って、パニックになりそうで」
涙が一筋、その白い頬を伝う。涼は私を見上げ、震える手で袖を掴んだ。
「見つけたとき、先生に何もなくてよかったって思ったんです。棚の器が割られているのを見ても、でも、怪我をしたわけじゃないって、器なんかどうでもいいって」
震える声を、私は自ら遮っていた。もうこれ以上聞いていられなかった。何も言ってほしくなかった。しかし、得てして開かれてしまった胸の扉を再び閉ざす術を私が知る由もなく、ただ目の前で涼の小さな体が壊れてしまうで、愚かしいことだが、私は自身が自覚するよりも先に彼女を抱きしめていた。
「いいんだ、涼。もういいんだ」
言ってしまいたかった。何もかもをぶちまけて、ここで話を終わらせてしまうべきだった。私は大丈夫だと嘘でも吐いてしまうこともできる。器などいくらでも作り直せるのだと強がってしまえばいい。蛆虫になど好きなものをくれてやると曰っても構わない。その、いくらでも思いつく限りの言葉で、涼を突き放してしまうことは容易だった。しかし私は何も言えなかった。ただ、如何なる勇気でもってそれを成し遂げることは出来うるはずもなかった、涼を抱きしめて、私は自らに封印した思いを抑えることができなくなっていたのだった。そして私の行為が、涼の最後の殻を破らせた音を聞いた。
「ごめんなさい。でも、私は先生のことが心配なんです―――」
+ + +
夜が明ける。あたかも宿命のように。
夜闇と朝の青を分かつ境界の下、まるで訝しむように切れ切れに雲が見下ろす中を、私はまた日常、そうであったように歩き慣れた山の獣道を一人、ある場所へ向かい進んでいた。
昨日、私たちはその後で、残された暴力の痕跡に対し、無言で跡形もなかったかのようにすべく、黙々と片付けに追われた。私の家が大きいと思ったことは一度もないはずだったが、中の家具に至るまでをひっくり返された惨状に、作業は必要以上に難航した。とても二人だけで短時間に済ませることは不可能だった。が、他から応援を求める気にはなれず、また涼はそれを快くは思っていなかったのかもしれない。平時に倍する活発な動きで彼女は次々に家財道具をまとめ、私と共に自らより大きな家具を立て直し、元あった場所へと戻していった。私も負けじといつになく動き回ってみせたものの、しかし夜半に至っても片付けられたのは全体のおよそ半分といったところだろう。今日もまた、ほんの一月も前、年の暮れにやった大掃除よりも大がかりな片付けを私たちは強要されている。結局夜になっても帰れず、またさすがに疲れてしまったのだろう。いま、私のベッドには涼が身を横たえ、束の間であろう深い眠りに落ちている。私はあれから一度も眠っていない。それを拒否していた。
私はずっと思案していた。
家の中に産み落とされた混沌を整理しながらも、私の心の中は常に火をあてられたように焦燥し、また戸惑っていた。あるいは浅はかであったかもしれない。涼に教えと導きを与えてきたその主が仰せられるような、善良というものが私には欠落している。良心すら朧気な私が、それに気付きながらも開かれないことを願ってきたものはもはや白日に晒されてしまった。だが、私は私自身を、また涼を欺くような真似はこれ以上できないことをすでに感じ取っていた。私の中で、もう涼は切り離すことはできない存在になっていたのだ。ある時を境に私はすべてを、あらゆるものを拒絶して在ることだけを望んできた。これから先において、自らの心の中に住まうものなど存在しないと。あの記憶の果て、私は誰も愛せず、また誰からも愛されざる者になりたかった。私にそれを決意させた、土と向かい合い、器に己の真意のすべてを注ぐことを除いて、あの日に至るまで燃え続けていた純粋な情熱は奥深く、今は万木の森に埋められている。それでいて、まことに馬鹿げたことではあるが、心のある場所に誰かが敷居を跨ぎ、入ってくることを待ち望んでいたのだろう。その誰かとは、言わば希望であった。希望がどこからか入り込み、私に語りかけてきてくれるのを待っていたのである。待ち焦がれた声は叫んだのだ―――「否!」それは私の中に、永久に埋もれてしまったかに思われた心を、その再生を叫ぶ声だった。教会の告げる鐘の音のように、それは私に響きわたり、福音をもたらすのだろうか。もはや私に、かつて高野川のほとりを私と歩き笑みを見せていた玲子の面影は、その声はもうなにも語りかけてきてくれることはないのだろうか。それをも希望は叫ぶのだ―――「否!」。
夢のままであって欲しかった。私は涼の幸せを願っていると言った。それは今なお変わってはいない。未来への意志ある者たちに彼女が導かれ、私のような泥を這いずる者からは遠ざけられてしまえばいいと。涼にはそうした未来があるべきなのだ。行く末に立つ教会で、ヴァージンロードの先、あるいはまだ見ぬタキシードに身を包む男と、自らと共にその名を刻み彫金されたプラチナの指輪が彼女を待ち、気の置けない友人たちに祝福され、花とハーブの香りの中で駆け回る子供たちへの笑顔に満ち溢れ、築いていく温かな家庭…今の涼にはそうした前途を見通すことが出来る。きっと私とでは思い描くことも出来ない未来だ。それをわかっていながら、しかし涼は私への思いを打ち明けたのだ。東西を分け、強固で高かった彼の壁を思わせた扉を開き、その狭い隙間から流れ打つ心を絞り出すように言葉に乗せた涼。彼女を抱きながら、私は菅原の辰徳のような男を愛するべきだと諭したが、流れを塞き止めることはかなわなかった。どのみち受け入れるより他にないのだろうか。熱に煽てられた時期を過ぎ、もしかしたら涼はすべてに嫌気が差すかもしれないと私は思った。私自身がそれを思ったとしても、私はきっと彼女に知的な好意を寄せることも出来るだろう。しかし、私には不釣り合いな妻が、彼女にはふさわしくない夫が、一時は共にあることを願ったとしても、やがて夢の時を過ぎればもはや同じようにはやっていけなくなる。その時、私と涼は、二人とも不幸になってしまうだろう。だからこそ、私は心を閉ざし夢のままであろうとしていた。
私はなお、思案し続けている。
だが、もはや途絶えたものと思われていた火は凱旋し、重く、楔のように穿たれた石の柱は明るく照らされている。プラトニックな関係であると曰えば虚しく離れ、あるいは言葉や誓い、交わりですら機械的にこなす人たちのようにはなれない。また涼を前にそのような態度であることを、私は自身に許しはしないだろう。例えいずれ涼の目が覚め、何かに違和感を感じるときが来たとしても、その時はその時であり、なるようになる。いま彼女が私の中に足を踏み入れようとするのなら、私は私の心で以てそれに応えよう。涙と共に自らの心を開き見せてくれたように、私もまた自身の思い、願いのすべてを涼に明かし、託そう―――
薄暗い森が途絶え、徐々に視界が明るくなっていく。友のように思って久しく、慣れ親しんだ山の頂上にほど近い場所。木々が途絶え青い空が広がるその下に、打ち立てられた九本の石の柱がある形でもって並び、私に相対している。雨の記憶の果て、雪深く大いなる正午を思わせたあの時に灯した私の心は、今はここに埋められている。日が昇り早朝の色が薄れゆく中、じきに涼は私のベッドで目覚め、階下へと降りる。まだ片付けきらない廊下を越え、リビングに入ったとき、彼女はテーブルの上に置かれたメモを見て私の中の重大な友情を知ることだろう。そこには「今夜十一時。夜空に星があったら出掛けよう」と記されている。
+ + +
航路は開かれた。昼を過ぎた頃に現れ、私を焦燥させた薄雲たちは夜が訪れると共にどこかへと去っていった。
私と涼はなお家の片付けに追われていたが、およその家具を立て直すことこそなんとか順調ではあったものの、その中身を整理して元あった場所へと戻していく作業にひどく手間取っていた。どういうわけだか、そこに収められていたものを元に戻すだけだというのに、引き出しの中は溢れかえり、同じように収まらないのだ。それ以前に破裂寸前のようになるまで押し込めていたわけではないのに。そんな片付けを私が、なによりも涼がやっているわけはない。にもかかわらず、具合良く整理することができなかった。私の家がこんなにも容量の狭いものだったのか、あるいはこんなにも雑多な物が増えていたのかと訝しむほどだった。そこに、さらに部屋の隅々に隠れ潜んでいた埃などが表舞台に躍り出てきたこともあり、彼らを退去させる手間も手伝って、一部屋にかかる労力と時間は膨張を続けるばかりであった。昨夜までに半分程度は片付けたものとしていたのは、ペテンの如き楽観であったらしい。空の青がダークブルーへとコントラストを落としていく中、拭き掃除と小物どもの整理整頓に脳髄をねじ切られそうになっていた私は、夜闇の下で朧気な星明かりが灯っているのを見、無様にも救われた気分を味わうことになった。それでも涼は実に熱心に働いていた。部屋の扉一つを開けては火を注がれたように果敢に挑んでいき、瓦礫の山を思わせる惨状に切り込んでいった。あっという間に混在する小物の類をそれぞれの収納にあった場所へと仕分け、私に的確な指示を与えて家具などは所定の場所へと戻し、物が退けられ顔を見せた床を磨いていった。その鮮やかでてきぱきとした動きを前に、私など、どれほどの足しになったであろうか。一人であったらすべてを片付けるためには家に火を放つことを思いつきかねない事態に、ただ途方に暮れるしかなかっただろう。空がすっかり夜に落ちる頃になり、不必要な物は捨てて整理するしかないと涼は意を決して私に宣告したが、むしろよくそこまで粘り強く頑張ってくれたものだと思う。私はもはや異を唱えるようなことはせず、彼女の提案を受け入れた。が、そこまで至るのにすでに一日を使い果たしてしまっていた。私たちは残る作業を明日行うことに決めて、夕食を二人で取った。
「すまないな。今日も泊まってもらうことになりそうだ」
すでに夜も半ばになろうという頃になってしまっていて、とても下界の街へとおりるために山を歩くことが出来ない時間に、私は涼に大変申し訳ない思いで、そう言った。涼はきょとんとして応えた。
「私は大丈夫ですよ。それに、今夜はどこか連れて行ってくれるんでしょう?」
その言葉に私はきつねに摘まれた気分になった。なんだ、覚えていたのか、と。今朝、私が家に戻ったとき、テーブルの上に置いていったメモはなくなっていたが、そこに書かれていたことについて涼は私に何も問うことはしなかったからだった。朝食も早々に片付けと掃除を始める彼女に、もしやゴミか何かと間違われて捨てられてしまい、彼女はその内容を知らないのではないかと思ったのである。その後も涼の熱心な様子に聞く頃合いも見出せず、私は一人勝手に今夜の行動は家の中が落ち着いてから改めて打ち明けるべきか、などと考えていたのだ。私がそのように話すと、
「だって、せっかくお出かけするのにやることが残っていたら気分が乗らないでしょう。だから頑張って今日中に終わらせてしまいたかったんです」
と、涼は返した。なるほど、あの十二気筒エンジンさながらの高回転ぶりは、そういうことだったのか。残念ながら明日に回す作業が出てきてしまったが、それはそれで明日やれば良いだけのこと。夕飯に使った食器を洗う涼はすでにその気になっていて、鼻歌でも聞こえてきそうなほど子供のようにわくわくとしているのが見て取れた。果たして、彼女の期待に応え得るほど楽しいことがあの場所にあるだろうか。一抹の不安を感じはしたが、私は洗い物が終わるまでにと急いで支度を始めた。
私の家が身を置く山はそれなりの高さはあるものの、決して大きな山であるわけではない。ただ夜も半ばに差し掛かろうという時刻もあり、涼には特に温かい格好をするようにと伝えて、私たちは家を出た。本格的な登山用の装備が必要というわけではなかったが、この真冬の時期、あの場所は風も強く冷える。基本的なものを除いて私が欲した荷物はランタンと地図、方位磁石と納戸から引っ張り出した手製の瓶とスピリットだったが、涼のリクエストでさらにペットボトルに分けた純水と小さなパン、五徳を備えたガスバーナーがザックの中に追加された。向こうで温かい物を飲もうと提案されたためだった。
「山の上に星の見える場所があるんですか?」
「ああ、この時期は空気も澄んでいて、とても綺麗なんだ」
火を灯したランタンを持って私が先導し、涼は暗い森を興味深そうにキョロキョロと見渡しながら後をついてきていた。
「なんだか不思議な感じ。夜の森なんて歩いたのは初めてです」
「足元には気をつけて。木の根が張り出しているところがあるから―――」
と、私が振り返ろうとしたところで、言った側から短い悲鳴をあげて涼が躓いた。案の定、獣道の脇から張り出す木の根に足を取られてしまったらしい。前のめりに倒れそうになるのを私はランタンを持つ手とは逆側の手を差しだし、半身で涼の体を支える柱になった。
「ご、ごめんなさい」
はっとして涼が身を起こす。私の家に通って三年あまり、ずっと下界の舗装された街で暮らしていた彼女もいい加減、山道にも慣れているはずだったが、足元も見通せない夜とあってはさすがに勝手が異なるのだろう。私は万一はぐれてしまったときのことを考えて、懐中電灯ではなく周りに明かりが広がるランタンにしたつもりだった。が、そもそも涼は私を頼りに歩いているわけで、そうしたことを考えるくらいならより安全な手段を講ずるべきなのだった。
「怪我はないかい?」
「はい。大丈夫です」
「もう少し歩くけれど、森を抜ければ歩きやすくなる」
そう言って私は、可能な限りぎこちなくならないように涼の手を取った。白くて柔らかい手の指先がひどく冷えているのが伝わってくる。どこぞの青二才でもあるまいに、やや気恥ずかしく、涼の反応を待たずして私はランタンの光の射す方へと向き直り、歩を進めた。気も利かず、そこから私たちは互いの手を握ったまま、しばらく無言のまま夜の山道を歩くことに集中していた。
上空の風を遮り、眠りに就く森の中はひどく静かだった。押しやられた闇の先で葉裏の住人たちがひそひそ話をしながら、ランタンの明かりを嫌い身を寄せ合って影の中に逃げていく。闇色にかすかな穴を穿つ火の輪の中を歩き続けて四半刻もしたころだったろうか、森の暗褐色の中にわずかにコントラストをあげた色をようやく私は見通した。森が終わり、その出口となった場所に差す星明かりの色だった。
木々の合間を抜け、夜の視界が開けるのを見たとき、私の背後で涼が小さく感嘆の吐息を漏らした。覆い被さるようにさえ見えていた暗い森のヴェールが取り払われると、夜空が私たちを出迎えてくれたのだ。昼間、雨をもたらすのではないかと私を心配させた暗鬱な雲は気配さえ残さず空の遥か彼方へと姿を消し、煙るガスは眼下の麓へと風に押し込められているのが窺える。遮る物は一様に退けられ、今夜は月もなく、想像しうるよりも多くの星々が宝玉を敷き詰めたドームの天蓋のように煌めきながら私と涼を見下ろしている。街灯も少ない閑静な地に住む涼も、これほど広く、また深い奥行きを感じさせる夜の星たちの並びを見たことはないだろう。山頂の凍えた空気やなだらかに流れゆく風がそう思わせるのか、数多の輝きの、手も届かんばかりの光に歓迎され、瞳の中に彼らを映し出して涼は夜空を見上げていた。私はそんな彼女の手を引き、ついに目的の場所にたどり着いた。
「ここは…?」
私が手を離したことに気が付いて視線を戻した涼が見たのは、夜闇に溶け込むような漆黒の石柱が九本、V字を描いて立ち並ぶ光景だった。まるで墓標のようにそびえるモノリスの足元へと私は歩いていき、ひざまづいてザックを下ろす。中を開いてガラスの瓶を取り出し、蓋を開いた。ランタンの火に照らされ、瓶の中身は琥珀を溶かし込んだように透明な金色を返している。彼の者が愛した荒涼の風の香りを嗅ぎ、私はピースハイルとエレシノの精油にスピリットを注いだ。限りなく純粋に近いアルコールと精油は瞬く間に混ざり合い、互いの境界を曖昧にすると、淡い翡翠の色を帯びた液体へと変ずる。その様子を、私の隣に屈み込んで見ていた涼が訊ねた。
「これは何ですか?」
「土と水の結晶を混ぜて蒸留したものだ。これに草木の繊維を寄り合わせたものを浸して火をつける」
モノリスの下には拳ひとつ分ほどの窪みがあり、小皿が備えられてあった。私はその小皿にゾドムの打ち紐を横たえ、翡翠色の混成油を慎重に垂らす。小皿一杯に満ちたところで打ち紐が油をたっぷりと含むのを見、ランタンから取り出した種火を移すと、それはモノリスの足下で煌々と燃え、黄土の光を放った。光はモノリスの中を、夜空へと向かい駆け上がっていき、焔の揺らめきが漆黒の石の柱に明滅する幾何学的な模様を浮かび上がらせる。残るモノリスにも同じようにして火を灯していくと、山頂にほど近いこの場所に、星が見守るその下でV字の光が描きあげられた。最後のひとつに混成油が足りたことに安堵した私は瓶に蓋をし、涼の元に戻った。
「よかったよ。もうピースハイルもエレシノも最後だったから、これでダメなら永久に見せることができなくなるところだった」
涼は火の光に魅入られ、モノリスの不思議な明滅に口元で手を合わせ、ただ「綺麗…」と呟いた。
「涼は、確か牡牛座だったね」
「ええ、そうです」
私の呼びかけにしばし惚けていた涼は少し驚いたように応えた。彼女がとても感動してくれていることに私は誇らしい気持ちになり、方位磁石で南を確認し、その方へ指を差した。
「あっちの方だ」
「なにがあるんですか?」
「今の時間、あの辺りに牡牛座が出ているんだ」
私は南中する輝星と星団の名を挙げ、星座の並びを涼に教えた。涼は少し戸惑いながら、私を真似て南の空を指差して牡牛座を探した。
「ええと、あの三つ並んでいるのがオリオン座で、その右斜め上の方に明るい星がアルデバラン、でしたっけ。その上に昴があって、それと―――」
涼はゆっくりと、丁寧に確認しながら星の名と、その並びを指先で描いていった。あるいは星の地図でもあれば、すぐにでも理解するに至ることが出来たのかもしれないが、あいにくと私にそんな物を用意するほど気の利いた頭はなく、またそれを持っていようはずもなかったのだった。私たちは時間をかけて牡牛の角とその体躯を形作っていった。
「星座の形なんて学生の時以来です」
と、牡牛座を見つけるまで時間がかかったことに、涼は肩をすくめて言った。
「でも先生が星に詳しいなんて、知りませんでした」
「いや、私もあんまりよく知らないんだ。この冬の時期の星座は少し調べた程度のものだよ」
じゃあ、どうして、という涼の表情を見、私は後ろを指した。光を衣のように纏うモノリスのV字が、なお絶えることなく揺らめいている。
「これは牡牛座を模したものなんだ。星占いで使われる記号に似ているだろう」
涼はモノリスの並びと、空の配列とを交互に見比べて納得したように私に笑みを見せた。
「狙っていたわけじゃない。でも気の利いたものを選び出せるほど私の持ち物も多くはない。だから、こんなものしか、きみに見せてやれるものがなくて…」
ここは私にとっての約束の地。誰しもに不便だ危険だと言われてなお、心を置いて離れることができない場所。これまで誰にも、どんな時にあっても、その存在を明らかにはしてこなかったこの地に、他者を招き入れたのは涼が初めてだった。だからこそ、誰にも教えなかったからこそ、私が、私自身の心を明け渡すことができるのは、ここをおいて他にはなかった。モノリスの炎に向き合い、ひざまづいて赦しの秘跡を乞うが如く、私は自らの井戸の奥深くを流れる隠された水脈に光が差し込むのを感じ、ひどく透明で純粋な清流が囁くのを聞いた。ひとたび発せられた水の音は強く、あまりにも遠く隅々に響きわたるようで、私は一度言葉を遮る。風に、星の輝きに救いを求めて上を見上げた時、すべての決意は完遂されたことを知った。
光なき闇の中を流れ続けた思いを汲み取って、私は涼に向き直る。じっと私を見つめるその瞳に、今度だけは視線を逸らすことなく、言わなければならなかった。
「涼―――。私は…私はきっときみを幸せにはできない」
かすかに目を見開き、しかし涼は何も言わない。
「今の私にはきみの望むことを叶えてはあげられない。必要だと求められても、何も渡すことが出来ない。応えようと思っても、ここにいる限りどうすることもできないと思う」
星の流れが、私にその一歩を勇気づける。
「だから、私は山を下りるよ」
思いのすべてを希望に賭けて放った私の告白に、あまりに意外だったのだろう、涼は驚いて口元に手をやった。何かを言い掛けているようにも見えたが、私は続けた。
「いいんだ。もう何も、ここには残ってはいない。麓の街でやり直そうと思う。小さな平屋で。環境が変われば土も変わってしまうだろう。けれども、またそこから、一から作っていけばいい………」
そんなにも頼りなく見えたのだろうか。心配する目で涼が私の腕を掴んだ。また、彼女が近くにいると感じて、ほっとする自身を思い、私も涼の手を取る。
「私は、大丈夫だよ。器を潰されたとしても、それにはもう慣れてしまったさ。何度潰されても、その度に作り直していけばいいんだってことも知っている。時間はかかったとしても」
まるで、これ以上は続けさせまいとするかのように、私の袖を握りしめる手に力が込められ、涼が私に身を寄せる。胸の中に隠れてしまった彼女がどんな表情であるか、私にはわからなかった。が、私はその華奢な体を、花を包むようにそっと抱きしめる。
「涼、それでもきみは、そばにいてくれるかい?」
私の心臓のすぐそばで、涼は何度も頷き、言った。
「はい。私、先生と離れたくない…」
それは確かに、私に届けられた。
「ありがとう。私もきみと離れたくない。山を下りたら、ずっと一緒だ」
山の風が舞う。雲を散らし追い立てたその笛の音に惹かれるようにしてモノリスの炎が光を増す。風の澱みをものともせず黄土の光に呼応する星の輝きは、いつしか強くなっているように感じさせた。
空と大地の狭間、双方のアルデバランに見守られる中で、私たちは唇を重ねた。
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