Dancing in the Yellow



























2.


 翌日になり、寒さに耐えかねて歯の根が合わなくなりそうな私にちょっとしたニュースを運んできたのは、私と同じく早朝の軽い散歩を得意とする、私や涼が贔屓にしている喫茶店を麓の街で営む野島だった。
 空が白み、青を取り戻しつつある中、日が昇る間際になり、私はようやく微かな安堵を覚えていた。今朝の山はいずこより沈み舞い降りてきたのか、幾重にも引かれ閉ざされた白いカーテンに包まれたように、私の家が再び雪に閉ざされたかと錯覚するほど濃い朝霧に覆われ、ひどく冷えて辺りは露草となって、しっとりと濡れていた。山中にあれば珍しいことではなく、雨の前触れに白の境界内に幽閉されることに私は慣れていたが、さすがに今日はいつものように山へ散歩に出掛ける気にはなれず、ふと思い立って山道に下り、麓の街へと続く街道に出てみると、意外にも天高く空は月を残し、星を飲み込んで青い朝を迎えようとしていた。今日に限っては風もなく、もたれ掛かるように山肌をなめる雲がちょうど私の家が建つ辺りにかかっていることを除けば、下界は昨日と変わらず輝かしい晴天であった。これで己の忌々しいまでの思い付きに何の疑いもなく準じた行動の結果、街道脇で寒さに震えることになった身にも、日が昇り太陽の熱がもたらされれば少しは救われることだろう。買い物の一切を人任せにする愚か者は、こうした状況下にあり、如何なる文明の利器が遥か彼方よりの加護を受けて温かい缶コーヒーの存在を煌々と見せつけていたとしても、懐にその恩恵を賜るための小銭を忍ばせておく偶然にもありつけないもので、私はいくつもの自動販売機を歯を食いしばって越え、より公平な、暖かい朝を待っていたのである。
 ここまで来れば、というよりここまで来なくとも、私の家まで一本道である。待っていれば向こうからやってくることにようやく諦めもつき、私は街道沿い、やや古びて褐色を濃く日焼けしつつも、年月の重厚さを格式高く誇り伝えるような木造の家屋が整然と建ち並ぶ住宅街も目の前というところで、ついにふてくされてタバコに火をつけ立ち止まった。
 タバコの煙も凍てつく先で野島と私が目を合わせたのは、そんな時だった。一瞬、野島は物珍しさを臆面も隠さない顔で私に白い歯を見せ、近づいてきた。

「旦那様、珍しいですな。こんな時間に山を下りてらっしゃるとは。昨日は良い夜だったので?」

 誓って私はこの男から旦那呼ばわりされる関係にはなく、野島の戯れである。また今に至っては昔のように路上に身を晒す醜態を繰り返し詰られていることもあり、野島のにやけた顔に紫煙越しの冷笑を返すことが私にはできた。これは涼の努力の賜であろう。

「残念だが大した夜ではなかったな。私は素面だよ」

「おや、それもまた珍しい。では、何かあったので?」

「いや―――」

 適当にあしらってしまおうとして、私は言葉を遮った。この野島の軽い調子ではあまり期待できないような気がしないでもなかった。が、他に聞ける相手が間近にあるわけでもなし、また自身の情報量の不足には、これ以上の時間、無為に過ごすのは良くないだろう。
 私は昨日の件について心当たりを尋ねようとしたが、それよりも先に野島は勝手に口を動かしていた。

「そういやぁ、旦那様。うちの近くにある平屋が空いたんですよ。この辺りにしちゃ中々広い方だし、庭もついてましてね。管理してる不動産屋の長島に聞いてみたら年数の割に結構安いってんで、旦那様、一つどうです?」

「なぜあんたが長島の回し者になってるんだ?」

「そりゃもう旦那様のためじゃありませんか。いい加減、不便な山暮らしなんか引き上げてこっちに来ちゃえばよろしいでしょう。下界、下界と旦那様は仰りますがね、こっちに来りゃ飯屋も飲み屋もアッチの店もいっぱいあるんですぜ? 旦那様、最近下りてきてないから、あたしが見つけた良い店も教えちゃいますよ。そりゃもう旦那様好みの綺麗なお嬢ちゃんがいる店があるんで。どうです、旦那様?」

 朝っぱらからおまえは何を色呆けているのかと、寒さに食指も動かない私は冷ややかにタバコの火を握りつぶしていた。そんな私に気付いてか、野島は観念したように本音を口にした。

「いやさ、旦那様。こんな寒空の下を毎日毎日、糺森のお嬢さんを山の中まで通わすのもかわいそうじゃありませんか。旦那様が山を下りれば彼女だって気軽に通えるし、旦那様だって楽じゃありませんか」

 まあ、そういうことを言いたいのだろうことは私も大凡察しがついていた。野島は私を古くから知る数少ない人間の一人だった。そうであればこそ、山に引き籠もる私の事情を知っているし、またその手助けをする涼のことも心配しているのである。手を変え品を変え、野島は私に山を下りるよう誘い説得するのだ。とは言え、その誘いに私が応じた試しがあったはずもなく、今日とて私が返すのは曖昧なため息だけである。

「残念だが、今はそんなことを考える時ではないよ」

 いつも通りの言葉に、野島が食い下がることはなかった。深海で押し黙る岩のように頑なな私の心を前に、かつて幾度となく挑んでは敗れてきた諦観からか、最近はその意味もないと悟ったように見えた。

「ところで―――」

 私は新しいタバコに火をつけながら、ようやく自身の問いを出せる機会にありつけた。タバコの箱を野島にも差し出してみたが、彼は手を翳して静かに遮った。

「最近、この辺りで不審な男が出たという話を聞かなかったか?」

「旦那様、藪から棒にケーサツみたいなこと聞きますね」

 野島の軽い調子は変わらなかったが、私が妙な感覚を覚えて顔をあげると、彼の顔から表情の色が抜けているのが見えた。私に感づかれたことを察し、ごまかすように野島は白い歯を見せる笑みを貼り付けた。

「へへっ。バレちまいましたかね。えぇ、旦那様の言うとおり、実は一度変な野郎があたしの店の近くを彷徨いてたことがあったんでさ」

「それはいつのことだ?」

「かれこれひと月も前じゃなかったかと。あのウジ虫野郎、雨降りの中であたしの店の前に突っ立ってましてね。浮浪者がゴミ漁りに来たんじゃないかと思ったんですが、しばらくはあたしも店のことで作業してたんで無視してたんですよ。それで夕刻から日も落ちてお客が掃けてきた頃になり、ふと外を見たらまだ奴が同じところに立ってやがる。気味が悪かったし、店の前に幽霊みたいに立ってられたんじゃこっちも客に逃げられちまうんで、そいつに文句言ってやったんですよ。用がねぇなら、とっとと失せろってね。あ、もちろん人がいないのを見て言いましたよ。なのにあの野郎はあたしの言葉が聞こえないように、微動だにしない」

「どんな成りをしていた?」

「いえもう、あれはただの浮浪者でしょう。汚い身なりでしたよ。ただね、顔がね…」

 野島が苦虫を噛み潰した顔をし、腕を組んで身震いしてみせたのは、おそらく今更寒さに震えたからではなかったろう。

「顔?」

「えぇ、馬鹿なと笑わないでくださいよ、旦那様。あいつの顔は普通じゃなかったんです。まるで、いやそこらの病人でもあんなひでぇ顔にはなりゃしません。それくらい顔がぶくぶくに膨れて、しかも膿みでも溜め込んでるのか、妙にヌメるような皺が寄ってるんですよ。そのくせ顔色は最悪で、血の気もなく真っ白。あたしも人の顔見ただけでぞっとしたのは初めてでしたね」

「よほど不健康な男だったのか」

「不健康、ねぇ…。いや、決して馬鹿にした訳じゃありませんよ旦那様。でもあたしから言わせりゃ、ありゃ死人の顔ですよ。それこそホントに顔中の穴から今にも蛆が湧いて出てきそうな。おっかなかったし、気味が悪くて、格好悪い話ですがあたしは顔見ただけですぐに尻尾巻いて店の中に逃げちまいました。―――ああ、嫌だ嫌だ。思い出すだけでも恐ろしい。あんなのとは顔合わせちゃいけませんよ。地獄みたいな奴で」

 如何にも胸くそ悪いと言った表情を浮かべる野島の、自身の店の中ではもちろん、例え外でこうして私と冗談を交えて話す時でさえ滅多に吐くことのない嫌悪と侮蔑を込めた言葉が、彼もまたその男にただならぬ感覚を覚えたことを私に強く印象付けた。
 野島は身を屈めて私に顔を近づけて尋ねた。

「でも旦那様、もしかしてあたしにそんなことを聞くってことは…」

「ああ、実は私の家に現れた。おそらくあんたが見た、そのウジ虫野郎って奴だろう」

 野島は目を向いて顔をしかめた。

「ええ!? あいつ旦那様のところにまで出たんですかい?」

「まったくご苦労なことにな。だが私は直接は見ていない。そいつを目撃したのはすず…糺森なんだ」

「うへぇ。お嬢さんが見ちまったんですかい。男のあたしでも気味悪くて逃げちまうほどだったのに、あんな若い娘さんじゃあ、ちょっと刺激が強かったのでは?」

「察しの通りだ。二階から遠めに見たというのに腰を抜かしていたよ」

 この、飄々と立ち振る舞いながら、その実、なかなか人情に深く他人を放っておけないらしい性分の野島は、うんうん、とうなづいて、その時の涼の気持ちを深く感じ入り、冗談のように眉を下げ心配そうな表情を浮かべた。

「怖かったでしょうなぁ、お嬢さん。で、何かされたんで?」

「幸い家の門のところに立っていただけで中には入ってこなかったし、私が朝の散歩から帰ってきた頃にはいなくなっていたから、大丈夫だった」

「そりゃあ、まあ怖かったにしろ、とりあえず良かったでさぁね。それにしてもお嬢さん、一人の時に奴を見ちまったんですねぇ。おかわいそうに」

 そこで私は思い至り、泥沼の奥底からゆっくりと沸き上がってきた泡のような疑問を野島に尋ねようとした。なんのことはない、些末な確認事項だった。おそらく、怪訝と共に否定されるだろうことは、少なくとも私自身においては曖昧な立ち位置故もあり、野島に対して期待を込めていたのかもしれない。

 私が口を開こうとしたとき、不意を打つように野島が何かに気付いて通りに視線を送った。私もつられて、そちらの方に目をやると、貫禄を帯びた木材が持つ細やかで力強い木目模様が静謐な壁画を思わせる家屋の建ち並ぶ通りの先、すでに山へ続く坂道が始まっている中をローギアで回しながらいつものMTBに乗る涼の姿が目に映った。私たちが彼女の方へ振り向いたのとほぼ同じくして、涼も私たちを認め、およそ通りの先にいながらも私はその少し驚いた表情を見せたことに気が付いた。

「まあ、こういうことだ」

 ようやく寒さに震える身に、日の光はもとより、白靄の中を分けて山を下りるというある種の暴挙が報われた思いがして、私は呟いていた。

「はい?」

 野島が何を言っているのかと首を傾げたのを見、私は安堵の意を込めたため息をもらした。

「最初に聞いたろう? なぜこの時間に山を下りているのかと」

 そこまで言い、私は涼の方に手を振った。野島は小さく、ああ、とこぼした。


+ + +


 私たちは早々に野島と別れると街道を越え、私の家へと続く山道への道を昨日と同じように並んで登り始めた。

「びっくりしちゃいました。先生がこの時間に山を下りているなんて。あ、もしかして昨日はどこかでお酒を飲まれたんですか?」

 野島にも同じ疑問を投げかけられていたことを省みるに、私は私が思う以上に、というより必要とされている以上の信用を未だ以て得られていないということなのかもしれない。あれほど散々に罵られて学習と言うものとしなければ、それはいっそ喜劇にも勝る。にも関わらず、あたかも骨を得たかのように、単なる思い付きから出たであろう言葉に涼は私にとっては絶望的な確信すら手にしかねない目で今やこちらを見ており、私は山を下りたことを心底悔やみそうになった。

「待ってくれ。私は不信で無感動な人間だと口走ったかもしれないが、薄情であると言った覚えはない」

 あらざる誤解への弁解のつもりが、どういうわけか刻まれていく涼の眉間の皺に、私は拳を振り下ろされんとする幼子のようにひどく怯えた心境に陥れられ、自らの言葉にさらに被せて強調せざるを得なくなる。

「誓って言う。昨日はそんな気分ではなかった。この通り、私は素面なんだ」

 涼が白面のように表情を消して押し黙る。これ以上は絞っても何も出ないぞ、というまな板の鯉にも似た感覚で私も黙った。願わくば、たまには私の言葉も信じて見てもらいたい。
 涼が視線を外し、手を口元に運ぶと笑みをこぼした。

「わかっていますよ。先生の二日酔いは飽きるほど見てきましたから。素面の時との違いくらい、私にだってわかります」

「からかってくれたな」

「その、昨日のことで、心配してい来てくれたんでしょう。ありがとうございます」

「元気そうで何よりだ」

 まあ、こうして人をからかう余裕があるのであれば、少なくとも昨日の私の思いは杞憂であったのだろう。涼の内心はまともであり、私にとってもまた彼女自身が変化し得るものではなかったということだ。

 日の出を待つ頃はまだ山肌を白いコートのように装っていた雲は、涼と共に分け入る時に至ってはその姿をどこかへ消し去っていた。今日は逆転して麓の街よりも少し遅かった明るい朝を迎え、山の草木や土は日の光にようやく目を覚まし、細く狭い山道を歩く私たちに露草の名残を煌めかせて見せていた。雪化粧の代わりのような霜の降りた土を踏みしめ、私と涼は木々の合間を進み、やがてはその一部にも変えられるやもしれない、今はまだかろうじてその体を保つ私の家へと入った。

「先に朝食を用意しますね」

 それが当たり前のことだとばかりに、涼は日々の慣例から容易に離れ、台所に向かった。米櫃から白米が流れ打つ音を聞いた私はやがて家の中に漂い始めるであろう食事の香りに期待しながら、昨日彼女が洗っておいてくれた作務衣に着替え、作業場へ入るとオイルヒーターに火を入れた。オイルが加熱されるのを待つ間に轆轤の点検をし、土を削る彫刻刀を浸すための湯を沸かそうと薬缶に水を注いで火にかける。沸騰を待つ間、私はふと棚の方にぼんやりと目を向けた。昨日、理由も明らかにはされないまま振るわれるだけだった暴力の痕跡が、まだそこには色濃く残されていた。棚のおよそ半分は今、辛うじて理不尽を逃れ身を寄せ合うようにして棚の上段に集められている。まるで十三階段を待つ囚人のように俯き押し黙る彼らの足下には、まだ乾ききっていない、柔らかく若い色をした器の子種が二つばかり置かれている。昨日、涼を送り届け自らの飯のアテを得て家路についた私が、ようやく指先に落ち着きと正気を取り戻して形にすることのできた器であった。
 もしもまだ、私の中に彼らと向き合うだけの精神が残されているのなら―――賽を投げるような思いに駆られ、私は立ち上がる。
 また土を取り、大上段に構える武士のように振りかぶって、息を一つ腑に落とす。臍下に気を溜め満身の力を込めて作業台に叩きつけた。頑丈であることだけを頼りに作られた無骨な台が悲鳴のように軋みあげる音を立てる。丸にも近かった種土は台の上で円錐形に広がる。私はそれを引き剥がし、下になる面を変え、また力を込めて台に叩きつけた。二度、三度とそれを叩きつければ、土は歪な型へと変化していく。なおも私は鉄槌の如く土を台に打ち据えることを繰り返す。いつしか、私の手にあるそれは目に見える不純な気泡を一つとして懐柔しない、粘り強く引き締まった土へと鍛えられていった。打ちのめされた土が硬くなるのを手のひらに感じ、また土が再び丸みを帯びかけるのを見、私は次の段階への導きを得る。土を置き、手を重ね台も打ち抜かんばかりに体重をかけて土塊を端から押し伸ばした。十分な水分を含み鍛え上げられた土は強引に押されてもひび割れることなく私の重みすべてを受け止め、身を伸ばす。最初は大きく、徐々に細やかに手の置き場所を変えながら、私は小刻みな呼吸と共に土を捏ねていった。少しずつ、少しずつ、削るように土に身を打ち下ろし丹念に伸ばしていくうち、土塊だったものが外への滑らかな湾曲を得て大皿の輪郭を得ていく。しかしそれはまだ私の求めた姿とは程遠く、長い道のりを思わせた。もっと強く、より深く、無心になって私は土への要求だけを手のひらに込める―――

 やがて一つの形を見いだせる頃になり、私はふと額の汗が頬を伝い落ちそうになるのを感じて、ようやく手を止めた。種土の完成はまだ五分にも満たなかったが、ここまではうまくいったように思えた。私は汗を拭くために手ぬぐいの在処を探そうとした。

「先生」

 呼ばれ、振り返った先に白く洗い上げられた手ぬぐいが差し出されていた。涼だった。いつの間に作業場に入っていたのだろうか。

「使ってください」

「ああ…」

 私は素直に手ぬぐいを受け取ると、汗を拭った。ヒーターなど付けるべきではなかった。こう、熱くなる時に火が近くにあると後で後悔することになる。

「涼。いつからここに?」

「ずいぶん前ですよ」

 そこまで言われ、私の汗を拭く手が止まった。

「すまない。朝食だったな」

「はい。でも、なんだか声をかけられなくて。先生、すごく集中されていたから」

「気にすることはなかったんだ。せっかく作ってくれたのに、冷めてしまった。それにきみだって朝は何も食べてなかったんだろう」

 私は自身を情けなく思いながら、申し訳なく言った。涼は笑顔を返した。

「私は大丈夫ですよ。それより、先生の調子が戻ったみたいで安心しました」

 涼に言われ、私はまた作りかけで手を止めた種土を見た。確かに昨日のことを思えば、自身にとっても、また涼から見ても私がようやく順調を取り戻していると思えた。私は満足し、また安堵して息をついた。

「昨日は遅くに友達が来てくれて、とても楽しかったんですよ」

 時の頃はすでに昼近くになっていた。気まぐれな綿曇が山脈に戯れるようにして降り、遠い情景を霞ませるのを眺めながらタバコを吸い、ふと私が昨日のことについて問うと涼はすっかり冷めてしまった朝食を温めながらにこやかにそう言って答えた。

「電話があって、久しぶりに話したら盛り上がっちゃって、吉志の三代子さんが六条の方から来てくれたんです。一緒に八幡の方からたまたま来ていた菅原の辰徳さんたちも誘って。ちょっとしたパーティになって、遅くまで話し込んじゃいました」

「なんだ。ということはきみ、あんまり寝てないんじゃないか?」

 涼は肩をすぼめ、ぺろっと舌を見せて悪戯っぽく笑った。まったく、人にはまた外で酒を飲んだのか、などという疑いの目を向けておきながら…と私は腕を組んでみせた。

「みんなと会うのは久しぶりだったんです。だからつい飲んじゃいました」

 酒に関しては私が何を言えたわけもない。もっともこれまでの涼に信用を問われるような、酒に乱れるようなことがあったわけではないし、たとえそのような席があったとして、若い女性が一人暮らしの家に易々と男に敷居を跨がせるものではない、などという親のような助言を口にすることはすまいと、私は悟られないように舌の根を奥にして堪えるのを感じた。涼もその程度の分別がない歳でもあるまい。
 私は多少、取っつきにくくあまり性が合わないものを感じるのだが、吉志の三代子と涼は気心の知れた仲であり、またあの赤髪が紹介したという菅原の辰徳は大変な努力家であるらしかった。食事の準備を整え、席に付いた後も涼は彼らと話したことなどをとても楽しそうに私に語ってみせた。菅原について私はあまり多くを知らずにいたが、辰徳という青年は学生の身で働きながら学資金を自ら捻出し大学を卒業した苦学生だったらしい。苦労のために大学で会計学を学ぶも、その資格を得るまでに卒後まで勉学に励み、また士となってからも職にありつくことができなかったり、やっと仕事を得る場所に至っても苦労は絶えなかったという。そうした順風も知らぬ道も固く念ずるような思い一つに真面目な性分で堂として歩み越え、先日、念願叶って独立し、自らの事務所を立ち上げるに至ったと、涼はやや熱っぽく語った。

「独立したら独立したで、また苦労してるよ、なんて本人は言ってたんですけど、なんだか自信に満ちている感じでした」

 食事中、というより常日頃多くを語ることを少し前から意図的に避けるようになっていた私に代わり、この家で口を開くのは涼であった。が、それを置いても、今日の彼女はとても楽しげに語り、そのにこやかにさえずる姿を私は笑みを返して見つめていた。

 食事を終え、窓際に立った私はタバコをふかしながらまた外を眺めていた。今日は正午を過ぎて少し雲が広がろうとしている。その下で、我が家の庭はいっそう寂しく見えた。冬の草木に混じり、花がないわけではない。が、花があっても眠るような土の上では、どんな彩りも色褪せて見えるもので、春夏の頃を思えば如何ともしがたく庭の様子は大人しく感じるより他になかった。

「お茶が入りましたよ」

 と、涼が食後のハーブティーを持ってきてくれた。私はタバコを消し、爽やかな香りを立てるカップを受け取った。涼が自ら選んでブレンドするハーブティーは、彼女の作る料理と同じように私にとっては大きな楽しみであった。少しの間、私たちは茶葉の香りに包まれ、静かに庭の風景を共に見ていた。

「暖かくなったら、また花を植えますね」

「今度はどんな花にするんだい?」

「金鳳花とか、黄水仙もいいかなぁ」

 といっても私に花の名前がわかり、その名から花の姿を想像する技を持ち得るはずもなかった。

「ま、きみの好きな花を選ぶと良い。植えるときは手伝うよ」

「お花を眺めながら、またバルコニーでお茶を飲みたいですね」

 別段、というより断じてこのようなことを感じるのは、今朝の冷気の直中で頭も凍り付きそうな時に、あの野島がへらへらと軽い調子で曰ったことが真言のように私の中で未だに残響していたからではない。ただ、これまで私たちはこんな風にして二人で季節を送ってきたのだ。庭の草花や四季の折々で多彩に変わる涼のハーブティー、それを注ぐ、あまり似つかわしくはない私の作った茶器、山に渡来する鳥のさえずり…そうしたものを間に挟み、いつも私と涼は向かい合いに言葉を交わし、共に何かをして、ずっと一緒にやってきた。私は涼がまだ幼く、ご両親の陰に隠れながらこちらを伺っていた時から、芯を持って立つ一人の女性になるまでを見てきた。雨の記憶の果てに流れ着いた私を彼女が知るように、私もまた涼のこれまでを知っている。その身の上に、涼を知る者の多くは光あれと願い、私もまたその一人であった。私は祈っていた。私のような者にはもはや如何にして想像しうるものではなくなってしまったが、せめて涼だけには約束されたものであってほしいと。彼女が想う限りの、幸せな未来、あるいはその自由であることを。だが、それもまた一つ、私の悪癖でもある杞憂なのだろう。私などが頭を垂れる先もないまま願うまでもなく、涼はもう自らの手で、または足でその向かう先を示すことも歩んでいくこともできるはずだった。複雑な事態の中で丁寧に舵を切り、乗り越えていくことだろう。私たちの間で道徳や人のあるべき道について語り合われたことはない。私に至っては彼の教典にはわずかにも興味がなく、またその聖書を開いたとて教え諭されるよりも先に外道であることを言い渡されるだろう。つまりおよそ私に、求められるであろう道徳などというものもないからかもしれなかったが、時折涼がやってみせるような、十字を切るときに己に語りかけ、自身にあるものの全てに思い馳せる心はわかっているつもりだった。そうすることで自らを鑑みることもできる彼女に堕落や言い訳がましい怠惰を見出すべくもない。夜のパーティや集団デートのようなことをやったと、好きなようにやらせたとしても、涼はきっと私よりも遥かにうまくやっていけるだろう。そしていつか、彼女にふさわしい誰かが現れて涼を迎えにやってくるだろうことを、航路の果てにたどり着くべき教会でのハッピーエンドを私は望んでいた。もはや結婚など無意味なのだと自身には強く諭す私は孤独に生きるだろう。しかし、今に至って私は心の奥底から、カトリック教徒であった玲子の「ミサを聞いて跪く時に、私は私の感じるもの全てを清らかに感じるわ。それが私にきっと良いものをもたらしてくれる―――そういうことを、きっと私は告白せずにいられないのでしょうね」と言った言葉を思い出してならなかった。なぜ私はその言葉を理解するに至ったのだろう。何一つ明確にはできないが、私にはやがて救いにも思えた。だが今の私は涼のことを考えなければならない。話は大きく異なっていく。如何なる巡り合わせか、涼もまた敬虔なカトリック教徒であった。それがために、あらゆる未来が運命任せなのだということを私は感じ、だからこそ、もう一つの思いをかけて祈っていた。運命が私のような男からは涼を遠ざけ、吉志のような友達、菅原のような相手へと導いてはくれないかと。今はまだ遠く、いずれ訪れる春を思い話す涼の笑顔に、私は幸あれと心から静謐の中に願っていた。





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