Dancing in the Yellow
1.
その男は存在しないはずだった。少なくとも私は気付いてはいなかった。
今朝の外は実に心地よかった。森の木々の合間に霞が流れ、凛とした空気はそのまま空まで抜けるように青く澄み渡っていた。日課とも言えるものではなかったが、私は麓の街よりも少し早い日の出とともに、いつものように山の獣道を散歩に出掛けていった。迎春に沸いた俗世の足並みを伝えに来ていた小鳥遊の息子の、あの浮かれた顔も今は少し落ち着きもした頃だろうが、私に至っては山の風に変わることはなかった。山だけはただ、静謐な息遣いを絶やさずに私をひどく落ち着かせている。そんな霞纏う空気を友のように思って久しく、いつものように散歩から私は帰ったのだった。
そしていつものように、仕事に取りかかるはずだった。
今は少々寂しい風体になってしまっている我が家の庭を越え、玄関を開けた私は、作業場に行く前に一声かけておこうと涼を呼んだ。勝手知ったる、といえば、まあ聞こえは宜しいだろうが、空が白むと共に出て山中の襤褸小屋まで毎日通うとは、物好きも通り越して彼女の熱心ぶりには感心してしまう。不用心だと警告されるので施錠してあった玄関が開いていたのが、今日も涼が来ていることを告げていた。
私は二度ほど呼んだが、涼はいつものように彼女しか使わないスリッパの音をパタパタとたてながら、しかし玄関にはやってこなかった。一瞬、彼女はまだやってきていないのではないかと思ったのだが、鍵が開けられていることを考え、不審に思った私は靴を脱いで敷居を跨いだ。
涼は二階にいた。彼女は朝早く私の家にあがると真っ先にバルコニーに出る。山を駆け下りてくる風は驚くほど枯れ葉や土を運んできて、一日かそこら放っておけばバルコニーは寂れの溜まり場と化してしまうのだ。そのため、涼は必ず最初にそこの掃除をする。今日もその慣習に反れることなく、掃除をしていたのだろう。
単に落ち葉を退けるのにあまりに熱心であったために私の声が届かなかったのなら、可愛らしいことだったろう。しかし私がバルコニーに続く廊下へと到ったとき、見えたのは出窓のガラスに背を預け、小さくうずくまっている彼女だった。驚いた私がバルコニーに出て涼を呼んだとき、彼女は箒を握りしめて家の軒先を一点に見つめ、小刻みに震えていた。肩を揺さぶられるまで涼は我に返らなかった。
動揺する涼をなんとか一階のリビングまで連れて行った私は落ち着かせるために彼女がいつも私に淹れてくれるハーブティーを作ろうとした。が、茶葉の配合を知らなかったために、私は自他共に認める不味い日本茶を淹れる羽目になった。
それでも私の不器量も手伝ったか、時間が立って涼は少し落ち着きを取り戻した。私は慎重に何があったかを訪ねた。
涼は初め、その男には気付かなかったと言った。
私がそれを疑わなかったように、彼女はいつも通りに私の家にあがるとすぐにバルコニーへと向かった。
「昨日はそんなに風も吹いていなかったから大丈夫かと思ったんですけど、あがってみたらちょっとびっくりするくらい落ち葉が溜まっていて、ムキになって掃除に没頭してしまったんです。それで、気付かなくて…」
涼は自身の不用心さを恥じていたが、私には特にそれを問い詰めたり、責めるつもりは毛頭なかった。というのも、そもそも私の家は街の郊外のさらに外、よほど熱心か、さもなくばあぶれた営業者でさえ足を踏み入れることを躊躇うような山の中にあり、人が軒先に現れることはめったになかったのである。そんな木々の合間に潜めるような、深く薄暗いところに通おうなどとする涼はそれだけ私にとっては奇特、もとい貴重な人間で、だからこそ彼女の中にも自分を除いて人が来ることはないという前提がどこかにあったとしても、それはごく自然な、無理からぬことに私には思えたのである。
「それで、見知らぬ男がいたんだね」
涼は頷いた。
「やっと落ち葉を集めて一息ついたところで、門の方に目がいったんです」
それでも当初は辺りの木々とその陰、まだ揺らめいていた霞に紛れるようにして、男が立っているとは思わなかったという。
「すごく、気味の悪いひとでした。そこにいるってわかってから私も目を凝らして見たんですけど、家の方に背を向けて、こう、首を深く俯かせていたんです。家に入ってくる様子もなくて、ただ立ってるだけなんですよ」
涼は思い出してまた恐ろしくなったのか、細い指をさらに白くするほど湯飲みをきつく握り締めた。
「その男の何がきみをそこまで嫌悪させたんだい?」
私の言葉に、涼は深く息をして自身を落ち着かせようとした。涼は穏やかな気質の女性で、訳もなく人を嫌ってみせるような理不尽を忌む心の持ち主だと私は知っている。その彼女にこれほど蛇蝎を見るかの如き目をさせた者とは一体何者であろうか。
「その人の手に気付いたんです」
「手―――?」
「青白くて、皺だらけの手だったんです。まるで血が通ってないような、でも、濡れているみたいに艶があって日の光に反射していたんです。バルコニーから距離もあったのに、どうしてそこまで見えたんだろう…。でも、浮き出た血管が皺の間中を張り巡らせる様子まで見えて、とても気味悪くて…見入っていた私に気付いたのか、しばらくしてその男が振り返ったんです。手と同じで、顔から首筋まで皺が―――そこでわかったんですけど、普通の皺というより皮膚がぶよぶよに爛れてできたような皺なんですよ―――びっしり刻まれていて、腫れぼったい顔の奥から暗い目で私の方をはっきり見上げたんです」
「それで驚いて腰を抜かしてしまったのか」
「はい。もう本当に怖くて…」
若い女性にありがちな、不安に起因した過剰な嫌悪や警戒感は時に人を怪物にせしめることはある。涼には珍しくも思ったが、私はというと、彼女の説明から我が家を取り巻く緑を葉に見立て、その中で膨れた蛆虫が身を捩る様を思い浮かべていた。
私は立ち上がると窓辺に向かい、レースのカーテンの隙間から門前を伺った。
「先生は帰ってくるときに見なかったんですか?」
「いや、私はいつも通り玄関から入ったが、誰もいなかったよ。そして今も見た限りでは誰もいないな」
カーテンを開けてみても、そこに映るのは冬の風に晒されて眠りについた墓地のような庭と、今は霞も晴れてその先にある森の緑と山の稜線が朝日の中で織りなす深いコントラストの情景だった。今日は時間が過ぎてなお遠く立ち並ぶ山脈を伺えるほどひどく空気が澄み切っている。不穏の影を伺い知ることはできなかった。
私は腕を組み、うむと呻いて、とにかく彼女の不安を取り除こうとした。
「まさか君が枯れ木を見間違うはずはないしな。何者か知れないが、しばらく用心しておこう」
そう言って振り返ると、涼が私の方を見ていた。少し驚いたような、安堵したようにも見える表情を浮かべて。私が眉根を上げたのを見、涼は恥ずかしそうに言った。
「もしかしたら鼻で笑われてしまうかもって思ってました」
普段、私がどういう態度をしているか、時折涼は鏡のように映し出す。
「私だって、たまには人の言葉も信じて見るものだよ」
やれやれと頭を掻いたが、見てもいない、どこにいるかもわからぬ輩を相手に、さて、用心とは言ったが、如何にしようかと私はぼんやり考えた。さしあたって有効なことは思いつかなかったが…。
「涼、とりあえず今日はもう帰りなさい」
私の言葉に涼はきょとんとした。
「怖い思いをしたんだ。無理に掃除なんかしなくていいから、帰って休んだ方がいいだろう。日のあるうちに送っていくよ」
「でも、」
「いや、いいんだよ。それでなくとも君はここのところ毎日私のところに朝早くから来て、日が沈むまでいるだろう。疲れてるんだよ。暗い山道を一人で歩かせていた私にも責任がある」
柄にもないことを口走り、私は息をついた。少々上気したのか、手にむず痒さを覚える。
私に言われたことをじっくりと解きほぐすように涼は考え、旨くもないだろう茶を飲んで言った。
「でも先生」
「ん?」
「ちらっと見ただけでも書斎と居間がすっごく散らかってましたよ」
ひび割れるように、私の額に皺が刻まれたに違いない。
「昨日ちょっと探し物をしてね。なに、あんなものはすぐに片付ける」
「あと、手ぬぐいと作務衣が洗濯籠に山積み」
眉にも、それは深く刻まれたに違いない。
「お台所は綺麗でしたけど、まだなにも食べてないんでしょう?」
さて、涼を怖がらせた男と私の今の顔はどちらが醜い様を呈しているだろう。
ぐうの音もない私を見、しかたがなさそうに涼は笑ってため息をこぼした。
「展示会の器もまだ出来上がってないんでしょう。私は大丈夫ですから、始めてください」
「いや、そうはいかないよ。片付けは自分でやる。飯もなんとかする。洗濯だって後回しで構わんから―――」
「今日着るものがあるんですか?」
見事な一突きに、ついに私は標本に縫いつけられた蝶のごとく大人しくならざるを得なかった。
「…でも、」
涼は湯のみを置いた。中の茶は飲み干されていた。
「先生の言うとおりにします。お洗濯だけしたら、今日は帰りますね」
私は情けなく肩を落としたが、まあ、日が暮れる前に山を降りられればいいだろうと自分を納得させ、手のひらを擦った。
+ + +
じゃあ、作業場にいるから何かあったら呼びなさい、と言ったまでは良かったが、そこに至るまで結局私は作務衣の用意から朝のトーストまでを涼に頼ってしまった。人が己の姿に気付くのはこういうときなのかもしれないが、決まって思う自身とはかけ離れた情けなさを伴うものであるらしい。
ともあれ私が作業場に入ろうとした頃には涼もいつもの快活な動きを取り戻して、青ざめていた表情も朗らかになっていた。それで私も少し安心して土に向かうことができた。
―――のだが、そこからは私の不運が始まった。
なぜだろう。作業場に入る頃になり、私の中に得体のない不快なものがあった。轆轤を回す微妙なさじ加減が狂っていたのに気付いたことを契機に、一心を込めた指先は見事に気を散らして土に乱れ髪のような猥雑な模様を刻んでしまったのだ。それを認め修正にかかろうとする頃には、病的な立ち姿は救いがたいまでの悪しき前衛の化身のようになるほど、私の眼をも闇に眩んでしまっていて、時間をかけ、心を注がんとした器の種はあっという間に破滅してしまった。耐えきれず私は土に拳を叩きつけ、泥に変えた。
それでも亡霊は去ろうとはしなかった。気を取り直そうと、また荒れた自身を鎮めようと土を捏ねるところに立ち帰ってみたものの、今度は土に触れる手の感触さえおかしかった。まるで水をたらふく飲んだナメクジのように柔らかく、いとも簡単に土が手のひらの下で潰れていってしまうのだ。土を寝かせる時間を誤ったのだろうか。もしや、この田土を掘り起こし黒土と混ぜて私に売り込んだ藤田に悪意なき失態が入り込んだか。今度会見した暁には器一枚における恨みの重さを、あの張り出した腹の脇から如何にしてグサリと刺し込んでやろうかと、今はまるで躾のなっていない幼子のような種土と戦いながら、いつしか私はその未来を思い描くことばかりに心を奪われていた。蛆虫の軟体を潰しているかのような感触が、私の心を奥底からかき乱していく…。
失意と嫌気に味付けされた煙草の煙は想像を絶して悪かった。にもかかわらず私はわずかに吸っては潰し、なぜかまた火をつけることを、作業場の脇に設けられた灰皿の前で繰り返していた。
これは取り返しのつかない病気であるように思えた。地獄の沙汰を見下ろす彼の彫刻の天辺に座する者のように、私は灰皿の前に置かれた粗末な切り株の椅子に腰掛け自身を蔑視していた。
「先生?」
声がして顔をあげると、涼だった。綺麗に畳まれた手ぬぐいを持っている。
「休憩ですか?」
あまりにも他意を含まない純粋な言葉で、私はげんなりした。皮肉も返せず無言で目をつむるしかない。そんな私の無礼な態度は慣れっこの涼は問いただすわけでもなく、手ぬぐいを置きに作業場の引き戸を開けて中に入った。彼女はそこで阿鼻叫喚を目撃したはずである。手ぬぐいも置かず、引き戸から駆け出た涼が私を見た。
「先生、何があったんですか!?」
驚きの表情そのままに叫んだ涼に、私は冷ややかに凍りついて応えた。
「なにも―――」
また煙草を潰した。
「なにもありゃしないよ。あるわけもない」
作業場の惨憺たる様子は涼に再びショックを与えてしまったようだった。
「みんな潰れてしまってます」
「私が潰したんだ」
「どうしてですか? あんなに時間をかけて作っていたのに」
「私の手がゲロゲロになっちまったんだよ」
私は頭を掻き、その頭を掻いた手のひらを実に禍々しい思いで見た。
「藤田の土になにか混ざっていたのかもしれない。あるいは作業台の足がぐらついていたのかも。でなければあんな風に叩き潰すほど造形が崩れるわけがない」
まるで若年性の癌細胞のように、病気は私を、そして作業場の棚で乾きかけていた我が子らにまで急速に拡大していった。否、癌が他者へ移るはずはないから、結局は私が潰したのだろう。造れば潰し、こねれば泥と化し、出来かけは割ってしまった。愚図も極まれば途方もなく、寒気すら覚える勢いで作業場の棚は寂しくなり、自身の中に感じられたのはいっそ後悔ではなく、虚無感だった。
私の精神衛生上よろしくなかろうと、そういうことはしないようにと涼には忠告されていたのだが、今度ばかりはやりきれなさに衝動を抑える術を私は見出せなかった。衝動がもたらす快楽は言わば自己破壊という人間の本能だった。破滅的な活動の中に、本能は私に真実を確かに伝えていた。土も台もおかしくなどなっていない、と。おまえ以外の何者にそれを成し得るのか、と。真実とは、私のささやかだった理性を踏みにじる怒りだった。いつしか、それを正しく認識することは困難を極めたが、私は自身の中に湧いた白面の影を感じ、それに激しく苛立ち、恐れていた。
今はもはやただの土塊と化した我が子らの亡骸を片付ける作業を涼が手伝ってくれた。海潮のように湧いた衝動も過ぎてしまえば穏やかなもので、また冷たくもあり、私はもう彼らが近い未来に約束されていた姿を取り戻せなくなったことを思っても、再び心が乱れる様子を見せなかった。土塊を重ねていく様は野戦病院の遺体収容場所を思わせる虚しさがあったが、また再生することだけは祈っていた。
大方の片付けが終わり、作業台も拭いて手を洗っていると、涼が出来損ないの山と化した土を眺めながら呟いた。
「私が、あんな話をしたからですか?」
その、涼の申し訳なさそうな目や口調にあてられて、いつ責めるような言葉を吐かなかったかと私は心底心配になってしまった。
「あの変な男を見たなんて、気味の悪い人の話をしたから―――」
「私がそんなに感受性豊かな男だときみは思っているのか」
知らず、必死な口調が混ざる。
「誓っていうけれど、君のせいなんかじゃないんだよ。いつもの癇癪だ。さすがにここまでやってしまうのは自分でも訝しく思うけれども」
ただ、私の気が変えられたとすると、確かに涼から青白くしわくちゃな男の話を聞いてからだった。それまでは私はいつもと変わらず、もしろいつもより気分が良かったと思う。だからと言って涼の話の何者が私に祟ったのか、そこまではわからなかったし、知ろうとも思わなかった。手のひらから肩甲骨にかけて走る神経がざわつくのにさえ抗い無視を決め込んで、単に今日は調子が悪かっただけだと私は自身に言い聞かせた。
「全部、私のやったことだ。君が気にすることじゃない。振り出しに戻っただけのことだよ」
言いながら、果たしてこれは誰に向けて放つ言い訳なのか、自身に言い聞かせようとするある種の躾のように思えてきた。居たたまれなくなり、また言い訳を続ける気にもなれず、私は半ば逃げるようにして作業場を出た。それに涼も続いた。
居間に入り、腰を伸ばそうとしたところで私は時計を見た。それに涼がわずかに早く言う。
「もう午後1時をまわっていますよ」
「ああ、こんなに長くやるつもりじゃなかった」
塩をかけられたナメクジよりも禄な行動を取れていなかったくせに、思いの外、時間を使っていたようだった。今日はもう、なにもかもが普段私が頼る感覚のそれとはかけ離れた彼方にあるようだった。唯一変わらなかったのは、不意に見上げた時計の時刻に呼び起こされるようにして腹の中で蠢いた、いつもの空腹のサインだった。
+ + +
今日はどこぞのスーパーでセールがあり、そこでまとめ買いをするつもりだったのだと、涼は告白した。まだやることがあるのではないかと巣作りの小枝を探すビーバーのように働きたがる彼女をどうやって目覚めさせようかと考えるうちに、私はふと冷蔵庫の扉を開けていた。私はビールを飲まない。山の坂道を登る涼に重い瓶を運ばせるのに気が引けるのもあるが、そもそも炭酸の類が苦手なのだ。私が夜の友に楽しむ酒はウィスキーやブランデーがほとんどで、それらの保管場所は窓を閉ざした、薄暗い納戸と決まっている。と、すると私は涼から、彼女が自宅へと帰ってしまった後の夕食などで作り置きしておいたものがあると指示された時を除いては、まず冷蔵庫を開けないのだった。まったく開けないということはない。が、大抵、水割りに始まりロック、ストレートと度を強めていく中で芳醇な香りに酔いしれ、星月を相手に無言で語る席の肴が欲しくなったときには開けたりもするのだが、何を取り出したかもほぼ覚えているものではなかった。従って、私は冷蔵庫の中に何物が収められているか知らず、そこに素面で手を伸ばしたのは、涼はきっとすでに何か用意してくれていて、だからこそ彼女に今日の仕事は終わったのだと説得する口実を求めたからであった。扉の向こうにはミネラルウォーターや緑茶のペットボトルがあり、ベーコンやチーズといった簡単なものこそ黄土色の光に照らされ収められていたものの、不器量な男の舌を楽しませてくれている涼の手が加えられた料理の類は何もなく、ほぼがらんどうだった。
「久しぶりに街で夕飯の食材を買いに行くことにしよう」
私はすがるような思いで宣言した。
冷蔵庫が空だったのは、それはそれで私にも好都合であった。ようするに半分は意地なのだった。とにかく涼を今日くらいは早く家に帰してやろうと思い、それが自身の勝手で遅らせるということが、いつになく許し難いことであるように思えてならなかったのである。あざ笑うがいい。如何なる権利にすがろうとも家事全般、飯のアテすら握られれば、その善意を前には手も足も出ない。涼には申し訳なくも、しかし私にとって、こうと決めた彼女の思いを曲げさせるための説得はこれほど非常に困難で、苦労も甚だしいことでもあったのだ。ともあれ私が出掛けると宣告したことでようやく涼は帰り支度をしてくれた。
+ + +
涼が山道を走るのに重宝すると言って愛用するMTBは華奢な彼女にはやや似合わないと私は常々思っていた。が、自身に言えたクチかと思えば、指摘することは自重せざるを得ないだろう。太く、ゴツゴツとしたブロックパターンのタイヤを転がしてラチェットの噛み合う小気味良い音を立てさせながら自転車を涼が手で押し、その隣に私という位置関係で、私たちは珍しくも二人で山を下りに歩き出した。
「すみません。今日は何もできなくて」
「そんなことはない。いつもきみはよくやってくれている」
私の言葉に涼は恥ずかしそうに首を傾げて見せた。すっかり葉を落として眠りについてしまったブナの木を見上げ、私は遠く流れる渓谷の流れに耳を傾ける。
「今年はいつも以上に冷えるが、雪が少ないな」
「前は大変でしたから。私はお天気が続いてくれた方がいいです」
「まあ、そうだな」
一度なり寒波に空が覆われたとき、私は家までの山道を雪と路面に張り付いた氷に閉ざされて、孤立無援の中にいたことがある。白銀の直中にあることに恐怖がなかったわけではなかったが、すべてのコントラストが消えゆく様に私は一つの喜びを見出そうとしていた。呑気なものだと涼には大変に怒られた。というのも、下界では涼をはじめとする私の残り少ない縁者たちが私の身を案じ、一つの騒ぎになろうとしていたのだ。寒波が去って彼らが私の家に駆けつけることができたとき、そこにいたのは向かい合う土も凍り付いたことに絶望し、書斎の一切の本を引っ張り出して、その直中で薄い背表紙に読み耽って、だらしなく口髭を蓄え山男さながらの風体と化した私だった。
およそ一週間であったと私は記憶している。その間、ほとんど飲まず食わずであったにも関わらず、寒波の中で身を守る手段をほとんど講じていなかった。実際、命に関わるようなことにはなっていなかったのだが、巡り巡ってそれが涼の耳に届き、彼女はとても心配して、ついに私に身の周りの世話をすると宣言したのだ。
「雪のない冬も悪くない。この冬はこのまま続いて欲しい」
今の私はそう願っていた。雨の記憶の、その後に私がながらえることができたのは、確かに涼のおかげであった。
山に籠もって悠々自適に暮らすことは、私が求めてきた夢でもあった。が、今に至り、そこに自身を置くようになってから、それもまた多くの難題を抱えていることに気付いていた。やってみなければわからない、とは言うが、やってみてから困ることは、やはり多かったのである。
山の下り坂を越え、麓の街並みが近づいてきた頃になり、涼がぽつりと私に尋ねた。
「先生、ちょっと話してもいいですか?」
「なんだい?」
涼は一瞬、躊躇うように間をあけた。
「実は今朝の男の人を見たときに驚いたのは、その人を見たことがあったからなんです」
「なんだって? どこで?」
「いえ、どこでもないです。見たと言うよりは出た、と言った方が正確かも…。夢の中に、あの人が出たことがあったんです」
私は涼が何を言わんとしているのか、理解しかねていたが、彼女に続けるよう促した。
「最初にその夢を見たのは去年の夏頃だったと思います。普段、そんなことはないんですけど、どうしても寝付けない日があって、その日に限ってはずっとベッドの上で寝返りばかり打ってました。壁掛け時計のルミブライトの針が真夜中を差して、一時になり、二時を差して、それでも眠れなくて―――。空が白んでくるのを感じて目を開けたとき、私は窓のそばにいてカーテンを開けたんです。でも窓の外はいつもの街の様子からは想像もできないほど灰色にくすんでいて、まるでゴーストタウンのように静まりかえっていました。怖くなって目線を下に向けたとき、私の家の前にあるはずもない、真っ黒な外壁に覆われた教会が建っているのに気付きました。いつの間にそんなものが建っていたのかと思って、外に出て教会の門の前まで出たときに、通りの先から車輪の音が聞こえてきたんです。まるで私が出てくるのを待っていたように…ゆっくりと、少しずつ車輪の音は大きくなっていって、とうとう通りの角から真っ黒な車体が顔を覗かせたんです。その車は、霊柩車でした。陰のような教会の門に、その車はまっすぐ向かっていって、私の横を通り過ぎようとしたときに運転席でハンドルを握っていた御者が不意にこっちに振り向いたんです。目が合って震え上がりそうになったところで、やっと私は目覚めて、夢だったと気付きました。シーツを握り締めて、汗びっしょりになって。秋口にも同じ夢を見て、私はやっぱりベッドの中で震えていた…そんな夢を、昨日また見てしまったんです。夢の後は決まってひどい顔になるので、今日は少しお化粧をしてクマを隠さなきゃいけなくなっちゃいました」
最後の方で涼は気遣いからか、少しおどけた感じに言っていたが、その声は震えていた。私は彼女の化粧に気付けなかったことをようやく自認して、平静を繕って、うむ、と頷いた。
涼はまっすぐに私を見、覆い隠すのはもはや難しかったのであろう、その不安を露わに続けた。無意識か、口元に運ばれた彼女の白い手が、それを私にも理解し得る形で伝えていた。
「その、霊柩車を運転していた御者が、今朝先生の家の門前にいた男だったんです。最初は、もちろん見間違いだと思いました。けれど、あの顔と、ハンドルを握っていた手だけは夢の中の彼以外の何者でもなかったから…」
「滅多なことを言うものじゃないよ」
そろそろ私たちは互いのように行く道を分かとうというところまで来ていたが、私は立ち止まり、山の風に晒され揺れる木葉のように震える涼の肩に触れ、彼女を落ち着かせようとした。
「疲れているんだよ、きっと。夢の中の住人は現実には出てこない。君は夢と、その男への恐怖心を混同しているんだ」
「でもっ…!」
顔を上げた涼の目にはうっすらと涙の筋が引かれていた。それが少なくとも彼女は虚構や出鱈目な感覚に混乱しているのではなく、私が言ったことには拒絶をしなければならないほど、確かな感触でもってそれを信じているのだと、必死に訴えていた。
「私はもう三度もあの夢を見ているんです。最後、あの男は必ず霊柩車の中から私をじっと見つめている…あの顔を忘れたり、普通の人と見間違えたりするはずないんです」
思わず叫ぶように語気を強めていたことを自覚し、はっとした涼は私から目を背け気まずそうに「ごめんなさい…」とこぼした。
私はただ心配になって言った。
「涼、今日は一人で大丈夫か?」
彼女の両親は、まだ土を捏ねることすら覚束なかった頃の私にまだ幼かった涼を紹介してくれたその人たちは、もう亡くなっている。いま涼は両親が残そうとし、唯一それが叶った家で一人、暮らしていた。こんな時に他に息づくものも絶えた広い家に一人残されて、不安がフラッシュバックしないだろうか。
「今日はもう、早く寝てしまいなさい。好きな音楽をかけて旨いものを食べて、温かくして寝てしまえばいい。そうすれば不安な夢なんて見ないだろう」
私の精一杯の言葉に、今度の涼は耳を傾けてくれた。ぐすっ、と鼻を啜った。
「先生」
「ん?」
「信じてくれるんですか? その、私の見た夢のこと」
「信じるよ」
「今朝の男の人のことは…」
「それも信じる。だから、まあ、私に言えたことじゃないが、家の戸締まりはきちんとしておきなさい。不安だったら友達を呼ぶのもいいだろう」
+ + +
そこまで話してようやく、私たちは残りわずかとなった分かれ道までの道程を再び歩き出すことができた。私は別段宣告をするわけでもなく、岐路に立つと歩を止めることなく涼の向かう方へと足を向けていた。先の話を聞き、とても途中で分かれるという選択肢へは通れなかった。
冬至も過ぎて、少しは長くなろうとしているのだろうが、まだその成果を感じることは不可能であった日の傾きはすでに夕刻の空から急速な勢いで夜へと落ちようとしていた。なるべく長く彼女といることが良い選択かと漠然と判断していた私は、しかし私の家よりも低い街にあっては、こうも夜が早くに訪れることを思い知り、早々に家まで送らねばならぬと歩を速めた。
なんとか日が沈むよりも早く涼の家にたどり着くことができ、彼女が玄関を開けて中に入るまで、私は律儀に見守った。
「ありがとうございました。おやすみなさい、先生」
涼が頭を下げ、扉の向こうに消えてしまうまでを見届け、施錠される音を聞いた私は、少し安堵した。涼の身に何が起きて、今日ほど取り乱すことになったのか、私にはまったくもってそのわけを伺い知ることはできない。そしてまた、震えていた肩に触れたあの時に、そうした方がいいと自身で思いながらも、それを口にすることを私は拒絶しなければならなかった。杞憂かもしれない。しかし涼にとって益になるわけでもないだろうと、私は思ったのだ。
それでも自身の中に、決して腑に落ちようとしない何かがあった。後悔である。
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