Dancing in the Yellow
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4.
雲も雨もなく、ただ風の流るるまま。私たちは嵐の中に身を投じ、溶けて混ざり合うことを願うようにして互いを求め続ける。解き放たれた胸の扉を感じながら、それでもなお聳え分かつ双璧を重ね合わせ、その奥に、暗がりの中にあろう光を欲して、夜が明けるまで、あさましいほど、狂おしいほど―――
目を覚ますと、寝室のカーテンは半分だけ開けられていた。押しやられていた曇たちが舞い戻ってきたのか、窓の外が純白に染められているのが見える。意識が溶けて闇に落ちるほんの少し前、こうすることで安心すると囁き、重ね合わせてきた涼の手のひらの感触はまだ私の中に残されているように感じられたが、ベッドの中は私しかおらず、毛布に彼女の痕跡が抜け殻となってあるだけだった。いつにない、体の気だるさを覚えながらも起きあがると、どうやら時刻はすでに昼頃になっているようだった。切りつけるような冷気は柔らかく、帯紐を解いた暖かみを覚えており、朝のそれとは異なっていたからだった。しかしどこかに忍び寄る気配のような冷気はベッドの足下に澱んでおり、私はある予感を胸に、服を取ると寝室を出た。窓越しにバルコニーを覗いてみると、白く濃い霞(かすみ)の中に消えてしまいそうな小さな背中を見つけた。
「おはようございます」
出窓を開けてバルコニーに足を踏み入れると、気が付いた涼が振り向いて笑みを見せてくれた。
「なんだかすごい霧ですよ」
「雲が降りてきたんだ。今日は降るかもしれないね」
バルコニーの下、庭の様子さえ定かには窺えないほど、ひどい煙りようだった。家の中を片付けるのに精一杯でとても庭まで手を付ける余裕はなく、荒らされた惨状を今だけでも見えなくしてもらえるのはありがたかったが、家の周りがどうなっているかもわからない。完全な白の世界に閉じ込められたかのような光景だった。おまけにベッドの中からは感じられず、また窓の外に出るまで気付かなかったが、外の空気は水の気配をはらみながら鎖のように結実して吹き溜まっている。寝起きの体温を奪われて身震いをひとつ、私は予感がやがて現実となるのを確信した。
「これは、雪になるな」
「中に入りましょう」
すでに昼の頃だろうに、眠りから冷や水を浴びせられた私は涼の言葉に抗うべくもなく従い、家の中に退避した。木造家屋の我が家は暖かく、そんな私を癒してくれたが、しかし取り囲む雲は今に冷気を纏ってその身を千切り、白い結晶となって舞い降りてくるだろう。一階におりてリビングの時計を見れば、確かに午前11時も間近。これより先で雪が降れば、雲にもよるが、明日の朝にかけて大雪になるかもしれない。
「涼、家に戻るなら今のうちだ。帰れなくなるかもしれない」
薬缶に水を汲み、火をかけていた涼は振り向いて一度窓の外を見やり、少し考える仕草を見せた。
「さっきまでそれを考えていたんですけど、こんなに濃い霧の中じゃ道に迷いそうで、帰るのも危ないと思うんです」
「雲だから下まで行けば問題はない。雪が降ってしまうとそれこそ身動きが取れなくなる。なにより、きみはもう二日も戻ってないんだ。このままというわけには…」
「私は大丈夫ですよ。家に帰っても、やらなきゃいけないことがあるわけじゃないですから」
「片付けなら、あとは書斎くらいだろう。それなら私一人でもできる―――」
と、言い掛けたところで、私は涼に気が付いた。どこか所在なさげに手を組んだり、視線を泳がせている。一瞬、訝しむ私と視線が合い、涼の背後で火にかけた薬缶が沸騰の汽笛を鳴らした。
「お茶を淹れますね」
踵を返して涼は私から視線を逸らしたが、もはや如実に表れていた。私と目があった瞬間に彼女の頬には紅が差し、背中を向けたとしても髪の合間に覗かせる耳までもが赤くなっていたのだ。どうやら嵐の余韻は未だ残されているらしい。その、言外の拒絶の意さえも、疎い私にまでわかり得るほどはっきりと伝えられたのでは、これ以上口を開くことは憚られた。
とりあえずたばこでも吸って気分を変えるべきか。そんなことを思いかけた私は、ふと指先で髪を梳いた涼の仕草に気が付いた。普段、彼女があまりやってみせることのない動きだったからだ。その理由について訊ねることで、私はこの雰囲気を変える糸口を見出した。
「今日は髪をおろしているんだね」
私の知る限り、女性にしてはやや短すぎるほど、ずっと涼はショート・ヘアだった。髪に対するこだわりがあまりないのか、長い髪が重苦しく感じられるのだと彼女は言っていた。しかし、いつの間に艶良く伸びたその髪は正しく流れると言った様子であり、肩に垂れる黒の妖しさもあって私には新鮮に感じられた。
「実はゴム紐が切れちゃったんです。ずっと放ったらかしにしてたから、もう煩くって」
やはり涼はあまり好ましく思わないようで、鬱陶しそうに頭を押さえてみせる。私はふと思い付き、ハーブティーの茶葉を混ぜて湯を淹れる涼の背に立ち、その髪に触れた。
「ちょっといいかい?」
そう言って私はうなじから背中、肩にと広がる髪を丁寧に集め束ねて梳いてみた。細くて柔らかい髪だった。絹の糸を思わせる黒髪は纏めると実に上質な反物を思わせるほどきめ細やかであり、光沢を放っている。
「あんまり手入れしてないから、バサバサじゃないですか?」
「そんなことはない。綺麗な髪だ」
気恥ずかしそうに俯いた涼の後頭部に、束ねた髪をくるりと巻いてまとめると、私はその中に縞瑪瑙の飾りのついた髪留めを差し込んだ。手を離すと、涼の黒髪は解けてバラバラになることもなく、彼女の頭の後ろで留められ、うなじを露わにした。
「あ、すごい」
まるで手品でも見せられたかのように、涼は纏められた髪に何度も触れ、嬉しそうに振り返って見せた。パタパタとスリッパの音を立てて洗面所に駆けていき、鏡で確認して瑪瑙の飾りに触れる。
「どうやったんですか?」
「なんのことはない。かんざしのやり方だよ。留め金はそのためのものじゃないけれど、飾りは似合うと思ってね」
「これ、すごく綺麗です」
涼の髪に差した髪留めは、果たして本当に髪留めだったのか、私はよく知らない。銀か真鍮のような、やや鈍い光を返す金属を打って形作られ、くびれた留め金の部分だけを見て、私はそれと思ったのである。留め金の先には銀糸を織り交ぜた細い紐に結わえられた黒い縞瑪瑙ーオニキスの飾りが提げられている。黒の表面には金の象眼が施してあり、小さな飾りをよくよく目を凝らしてみると何かの文字のような、模様のようなものを見て取ることができる。それを意志ある言葉と取るか、奇抜な模様と思うかは判然とはしなかったが、いずれによってもその瑪瑙の持つ魅力は涼の髪にあって、彼女を良く引き立たせていると私は思った。
「気に入ったのなら、いずれ本職の物を贈るよ」
「いえ、私はこれで………。これがいいです」
そう言って涼が見せた笑顔に、私はとても嬉しい気分になった。私にとって、長い髪は辛い思い出を呼び起こすものでしかなかったのだ。今に至り、涼の髪に触れた私は、しかし深い井戸の底を窺おうとしてもそれらが浮かび上がってこないのを感じていた。
改めてハーブティーを淹れる作業に戻った涼を見、私は思うのだった。希望は確かなものになった。涼、きみはいま私の希望であり、私はきみに導かれるだろう、と。
+ + +
朝食を済ませ、再び片付けの作業に入った私たちがまず行ったのは、昨日処分することを決めて分けておいた不必要なものたちをまとめることであった。これ自体はさしたる労を重く感じさせることもなく、単にまとめてあった物をゴミ袋に放り込むだけということもあって呆気ないほど速やかに完了したのだった。昨日までのことを思えば私の家はようやく一つの事態について収束に向かいつつあることを感じられるくらいにはなっているらしい。家に潜む者共を一掃した後で、むしろ私の家は身を軽くし、快い風が通り抜けて、だいぶすっきりとしたようにさえ思える。と、そんな風にしておよそ片付いた部屋たちを眺めてから向かったせいなのだろうか、最後まで残されることになった書斎に至ったとき、私たちはごまかしようもない、ある既視感に襲われていた。おそらく私自身は慣れてしまっているのだろうが、こと涼に至っては書斎に入るなり小さくため息をこぼした。
「ちゃんと片付けてなかったからかもしれないんですけど…」
「もはや私が散らかしたのか、蛆虫がやったのかわからんな」
書斎の惨状は、これまでの部屋の惨状とはやや異なる様相を呈していた。確かに他の部屋と相違なく、ここでは書棚の書物の一切が引っ張り出され、昨日まではその棚も倒されていた。応急的に書棚だけは立て直し、書物たちを元の場所へ戻すのを後回しにすることにしたのだが、それがかえって現状を小難しく思わせるものにしているとも言えた。つまり、床にぶちまけられた本の類が転がる状況が、である。ここはそもそも奴が荒らすよりも先に私が書棚のあらゆる書物を一度ひっくり返しており、諸々の事情により涼が片付ける前に無頼の襲撃にあったわけだが、こうして棚だけ立て直した書斎に立ってみると被害が出る前と後との差はあまりないようにも思えるのだった。荒らされる前からどっ散らかっていたために、その実ここだけ唯一被害を免れたのだと言われれば、そんな気がしないでもない。つまり私の散らかし方もずいぶんなものだったわけで、それを蛆虫がもう一度丁寧にひっくり返したとしても、傍目には散らかっているという状況そのものに変化がなかったのだ。
「いや、だが、さしもの私も全部を床にぶちまけはしなかったよ」
「私としては一人でやらずに済んだので良かったですよ」
チクリと刺されたので、私は口をつぐんだ。黙って作業を始める。
まずは散らばった書物の中からレタリングの揃うものをまとめ、シリーズごとに仕分けていく作業からだ。実を言うと私はこれまで一度読んだ本を読み返したりすることがあまりなかったのだった。それは私のひとつの特徴だと言われ、自身では大変厄介な悪癖の一つとして数えている、その記憶力が故のことだった。ほとんどの書物は一時の集中と高揚感を与えてくれるものだが、私の場合は一度読んでしまったものに対してそれを過信して再度開こうとすると、その中身のほぼすべてを覚えてしまっていて、一度は大いに盛り上げてくれたものがひどくつまらないものに感じられてしまうのだ。それはとても苦痛であり、裏切られたような気分になって私を失意の暗がりに放り込んでしまう。と、そうした思いさえもまたしっかりとこの頭は覚えているため、二度と訪れることのない興奮を惜しんでその本に触れることさえどこかで拒んでしまう。すると私の書斎は途端に、大凡の人間が思い描くであろう、一つの夢でもある大きな書棚いっぱいに整然と並べられる書物たちの、オーケストラと声楽隊の奏でる第九の舞台を連想させる重厚な雰囲気が音を立てて崩れだし、ただ雑然と、出鱈目に押し込められただけの見苦しい牢獄のような有様に成り下がるのである。そのくせ、古本屋などで目を引くレタリングを目撃しては大きな期待を寄せて購入し喜々として読み込むことをやめないので、まっこと、独裁者のエゴだけが成し得る不当な逮捕の末に収監される無実で哀れな囚人たちが際限なく増えていく悪政がここまで続けられることになるのだ。記憶力と悪癖の是正はまるで結びつけることができないもので、そうした刹那の快楽と引き替えにその後の激しい後悔と苦悩を続けることを私は一向にやめようとしない。事実、これらの本との付き合い以外においてもその記憶力によって今なお鮮明に思い出される過去への追憶を、あらゆる時に私は繰り返し、繰り返しては絶望に咽び泥に這ったあの頃から離れられずにいる。
「あ、懐かしい。この本はよく読んだなぁ」
涼が乱雑に散らばる中から表紙さえ擦り切れそうな一冊を見つけて言った。古い本だった。
そんな灯台の明かりのように幾度も巡っては私の奥底を照らし出す記憶のフラッシュバックから救ったのもまた、涼だった。彼女が私の家に出入りするようになり、基本的に私は何をするか、一切の注文をしてはこなかったのだが、彼女は私が何を言わずともバルコニーを使えるようにしたし、庭に花の彩りを添えた。そしてこの書斎においてもその実績は残されている。それがこのレタリングを揃えて収めていたという事実だ。数多の書物を整理するのは大変な苦労であったろう。いまこうして仕分けようとする私は、いつの間にここまで膨大な量に膨れ上がったのか、その数の多さに圧倒されかかっていた。書斎の部屋一つが完全に紙の束どもで埋め尽くされている。当時は書棚の中とは言え、引っ張り出して整理するのは時間と労力を相当量注がなければ出来るものではない。少なくとも私は一人でやるのは御免だ。
「所有者としてこんなこと言うのは良くないが、これをよく整理したものだね」
「きちんと揃えていた方が見た目が綺麗じゃないですか」
まったく以てその通りであり、その通りであるからこそ、それを散らかしたということに私は罪悪感を覚えていた。今回のことで涼にかけていた苦労の、あくまでもごく一部であろうが、その片鱗に触れたこともあって、これに懲りて自身にも少なからず自制する心を持たなければならなくなることを予感していた。
「まあ、読み始めたら止められなくて、シリーズを通して読んでいる間にまとめられたっていうのが本当なんですけどね」
「そうだったのかい?」
確かに時折書斎から涼が本を持ち出して読んでいることは知っていた。が、それでも、その他の家事に支障をきたしたことはなく、一体いつの間に読んでいたのだろう。彼女が家の中のことを取り仕切るようになる前、あるいは私がこの家に住み始めたのを知って遊びに来ていた学生時代からのことを言っているのかもしれない。まあ、雇われた家政婦のように他人行儀のまま家の中を機械的に掃除するだけの存在になってしまうよりは花を植えることも然り、書斎の本を楽しんで読んでいるというのなら、私は大いに結構だと思う。
ともかくただ乱雑に、腫れ物に触れることを嫌い臭いものには蓋をして目を背けることを繰り返していた私にとって、形の上でもまた涼がそれを整理し、彩りよく変えてくれたことで私は再び彼らに触れるきっかけを見出し、一つずつ自身の中でケリを付けていくこともできるようになっていったのだった。
「そういえば…」
いくつかのシリーズ物の本をまとめて書棚に収めた涼が何かを思い出して私に問いかけてきた。
「前に整理したときに、ここの壁に何か文字が書かれていたのを見つけたんです。どこだったかしら…」
「そこの扉の脇にあるやつのことかな?」
私が指差した先を見、涼は「ああ、そうです」と言って書斎の扉の脇に屈み込んだ。
「これです。壁に彫ってあって…一度聞いてみたかったんですけど、これって何の言葉なんですか?」
涼が示した壁の一文とは煤の染み渡った木造の壁に、おそらくその色に変ずるよりも前に彫られたものであろう、それ自体がすでに壁の一部に吸収されかかりながらも辛うじて読みとることの出来るものだった。おそらく先の丸い、切れ味は悪かったであろう刃で丁寧に彫られた文字は英文で書かれている。
私は、私が住むよりも遥か昔からこの家が様々な人物たちの雨風を凌ぐ屋根と壁とをもたらし安寧の眠りを与えてきた、小さくも古き歴史を持った家であることを思い出した。
「それは私が彫ったものじゃないんだ。たぶん前の住人がやったんだろう」
「そうなんですか? どうしてこんなことを」
「さあな」
如何なる事情の下で、また如何なる心理を以てしてこんな言葉を、こんな場所にわざわざ刻み込まなければならなかったのか。それはその人物でなければわからないことであり、私は永劫教えを乞うこともできないことを知っている。二度とは帰らぬその人が万感の思いを託したであろう言葉の真意にも、私にはたどり着くことはできないだろう。理解し得ることができるのは、その一文がもたらす妖しい言霊の魅力だけだった。
Let the red dawn surmise
What we shall do,
When this blue starlight dies
And all is through.
「紅の暁に思い馳せよ。この蒼き星明かりも絶えて、全てが過ぎ行く時に…。詩歌の断片かもしれないね」
「私には、何か大切な決意を印したものに思えるんです」
多くの人がそれを願いながらも、私のような者が幻想だと言ってしまうものの中に、言葉がある。真実というものが存在し、確かな形を持って横たえられる時、そこに言葉は存在しないのだと思っているのである。真実は言葉では語り表せるものではない。所詮、それは一つの記号であり、ごくわずかな一面のみを取り上げたものでしかなく、真実そのものを語ることなど言葉を使っては決して叶わないのだ。同時に、そうであるからこそ言葉というものは受け取り手によって様々に変化しうる可能性を常に残しているのであり、もしも涼が壁のこの一文にそれを思うのであれば、それは涼の自由であり、また彼女にとっての真実の一部にもなり得る。私のそれとは異なり、闇に真意を逃したこの英文を読み、そうした感想を思い浮かべられるのはやはり涼であるからなのかもしれない。
「そう思うのなら、大切にしまっておくことだ。いつかきみにも、それと同じ思いを抱くときが来るかもしれないからね」
「はい」
そう言って納得したように片付けの作業に戻った涼が、しばらくしてまた私に訊ねた。
「この前、言ってましたけど、探し物は見つかりましたか?」
一瞬、それを聞いた私は何のことを訊ねられたのか、思い至らなかった。何かあったろうかと考えたが、頭の中にはっきりとしたものが見出せず、涼が再度この書斎を散らかした理由について私が探し物をしていたと言ったらしいことを教えてくれたが、しかしそれでもなお私にはそれが何であったか思い出せなかった。ここ数日の蛆虫絡みと思しき奇怪な出来事に神経をすり減らしていたこともあり、わずか四日ほど前の記憶であるのに、なぜかその晩のことについては明瞭には回帰できない。
「確かに何か探していたような気がするが…忘れてもいいものだったのかもしれないな」
自身にも釈然とはしなかったが、いま頭の中を鑑みるに不足に感じる物はなく、問題はないように思えた。何かに満ち足りた思いを感じることはあまり多くない。が、しかし今をおいてはそうした不定形の欲求の影が忍び寄ることもない。もしかしたらすでに私は見つけてしまっているのかもしれなかった。涼への思いがそうであったように。
さて、先ほど私は一度読み終えた本を読み返すことはないと言った。家の中の全体を平たく見渡してみたとき、おそらくこの書斎に関してはひどく荒らされてはいなかったと判断できるはずだった。確かに膨大な量の書物があったとはいえ、家具は壁沿いに並べられた書棚があるだけで数は手指で数えられる程度しかなく、立て直してしまえば物を収めるのにもこれまでのような容量不足を感じる苦労もない。そんな、比較的容易であった書斎の片付けを最後に回したのは、涼がどうしても片付けの最中に気を取られてしまうのだと言って、やりたがらなかったのだ。そういうことをしない私にも、およそ理解することは出来る。本というものには他にはない、私たちの知的好奇心に働きかける独特の魔力が存在するのだ。つまり、片付けの途中で自らに思い出があったり、また開いたことのない書物を見つけてしまったとき、特に涼は思わずその表紙を開いて読み始めてしまうものなのだ。
そして実際、しばらくの間整理と収納の作業に没頭していた私が涼の快活な動きが凍り付いたように止まっているのに気が付いた時には、すでにその魔法は実行された後であった。先ほど見つけた懐かしい一冊か、それとも読んだことのないレタリングが目に止まったのか、彼女は書を開いて読み耽ってしまっていた。いや、正確には少し前からその兆候があったのだと思う。本を手に取り表紙をじっと見つめていたり、はっとして作業に戻ったりといったことを繰り返していたのも私は視界の端に見ていた。涼自身、危惧していたからこそ、そうならないようにと心に決めていたのだろうに、ついに知性の純然たる欲求に負けてしまったらしい。もう手遅れだとは思ったが、私は一応涼に声をかけてみた。とても純粋に、空に向けたように一切の反応が返ってこない。何事に対しても熱心であることは涼の長所であると私は思っているが、こうして本を読んだり編み物をするときなど、時折涼はこうなってしまう。まるで子供のように一心に集中して周りのことを忘れてしまうのだ。こうなっては気が済むまで読ませてやるしかないだろう。
私はそっと書斎を出て、小休止をすることに決めてたばこを吸いに所定の場所であるリビングの窓辺に向かった。ここでたばこを燻らせることについて涼が快く思っているとは思わないが、しかし私は庭の見えるこの窓辺での一服が好きだった。
たばこに火をつけ、外に目を向けると、ついに空を覆い私の家をも飲み込んでいた白銀の分身たちが舞い降りてきているのが見えた。綿菓子のようにゆらゆらと楽しげに宙を舞い、辛うじて見える庭土の上に降りてなおその身の白を消すことのない、予想したとおりの大粒ではっきりとした雪の結晶が次々に結実し、庭を真っ白に染めようとしている。どこか懐かしい思いがして私は窓を開ける。山の中、風も朧に漂う雪の日に現れる、凛と引き締められた空気の香りを嗅ぎ、かすかに耳に届けられた結晶の降り積もる儚い音を聞き、いつもの遠い山の情景も、庭の花壇も、私の家そのものまでもが白くなろうとしている。
再び私は自身の中の何者かが声を上げ、その直中より遠雷のような既視感が襲いかかってくるのを感じた。
全てが白に染まる。あらゆる彩りは拭い去られ、闇をも圧しコントラストの全てを、この目が認識するものの境界をぼやかしていく。識別することを封じられた私の目は大いなる正午によって決して日の下においては見透かしうることのできないはずの、奥底へと導かれていく。そう、これはあの時に手にした感覚。
既視感が私の記憶を写し取り、囁きかける。
「探し物は見つかったんですか?」
先ほど問いかけられた、涼の声。いまは書斎で本に夢中になっている彼女の声が私の体の中でリフレインし、骨の髄に至るまで響きわたっていく。狭く浅い入り江に放たれた水の波紋のように、涼の声が、その言葉が広がり、岸に跳ね返っては複雑に、幾重にも重なっては幾度となく荒波と化して打ち寄せてくる。そしてそれは残響を繰り返すほどに、調律された弦楽器の調べを思わせる涼の声を狂わせていく。旋律はねじ切られるように崩れキーが乱高下し、抑揚すら失って、あらざる者の声へと変わっていく。
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったか?」
「探し物は見つかったか?」
「探し物は見つかったか?」
響く。
重く、石を踏み砕くような声が―――
「黄の印は見つかったか―――?」
水底で打ち鳴らすクリスタルのように、終末の問いかけが私の中に共鳴する。この囁きは一体何者の声なのか。重厚にして七色に輝く鐘の響きに打たれ、根本まで燃え尽きようとしていたたばこが指の間から滑り落ちる。足下が覚束なくなり、私はよろめいて窓のサッシに手を付いたが、そのまま床に膝から崩れ落ちた。足が、手のひらが鉛を注がれたように重く感じられる。
また、あの者の気配がする。
荒々しい音を立てて書斎の扉が開け放たれ、壁に激突する。体当たりでもしたかのような勢いで涼が飛び出してきたかと思うと、彼女はそのまま慌ただしくスリッパの音を立てながらどこかへと駆けていってしまった。その血相を変えた様子にただならぬものを感じ、私はもはやまともではなくなった我が身を、手足を引き摺るようにしてやっと体を起こし、這うようにして後を追おうとした。非常な労力を用いて書斎の入り口まで到達したとき、私は床に落ちていた一冊に気が付いた。それは先ほどまで熱心に涼が読んでいた薄いレタリングの一冊であり、巻末までが開かれた状態で床に放り出されていた。首の座らない赤子の身じろぎにも劣るほどの動きで、どうにかその本を手に取ってみる。
「黄衣の王」
その表紙に記されていた文字を読み取り、私は驚愕した。なぜ、なぜこれがここに、私の家の書斎にあったのだ。こんな恐ろしい物がなぜこの場所に…?
これを書斎に置いた記憶はない。これは二度と開いてはならない書であり、決して触れてはいけないのだと心に誓ったはずだ。呪われた真言を記し、それを読んだ者を混沌の深淵に誘ったと謂われ、事実これを手にした者は例外の一切を漏らさず凄絶に破滅し、いまやその内容を知る者も、疑念を打ち明け語り合う人々すら口を閉ざし絶えて、荒廃の結実とまで叫ばれ恐れられた書。この書の第二部にあたる戯曲がもたらす恐ろしくも蠱惑の物語は人が触れることを絶対に赦しはしない。まだ若かった橘の彼女の身に起きた惨憺たる不幸の影にその存在が囁かれ、事実足るものと私が知るに至り、そのあまりにも不気味な存在感に耐えかねて、全ては火に投じられたのではなかったか。しかし、いまこうして私の手に舞い戻り確固たるその存在感でもって表題を掲げた書を前に、私にできたのは、ただ無力に震える手で表紙を閉ざすことだけだった。
まさか―――。絶望的な確信が頭をよぎり、私は石を詰め込まれたかのような体を強引に奮い立たせ、涼を呼び、彼女を捜した。廊下を渡り階段を駆け上がって、涼を見つけたのは私の寝室に至ったときだった。涼は今朝まで横になっていたベッドの上で膝を抱えてうずくまっており、私が呼びかけても顔をあげようとはしなかった。私は慎重に彼女の下に歩み寄り、ベッドにもたれ掛かって、顔を近づけるとそっと顔を上げさせた。涼が、その瞳が私を捉えたとき、彼女は何かを言いそうになったが、しかし何も口にはせず、私はその闇が落ちたことを思い知った。もはや問いただすまでもなく、蒼白になった顔や、それでいて酸で溶かし込んだように抜け落ちた表情、色褪せてしまった眼差しを見て、涼が黄衣の王において禁断とされた第二部までをも読み、その過ちに罰を受けたことを理解してしまったのだ。なんとしたことか。どうすることもできず、ただ震える肩を抱きしめ、私は涼が落ち着くのを根気強く待ち続けた。
やがて白の世界にも闇が忍び込む頃になり、涼は目を閉じて静かになった。眠っているのかどうかはわからなかった。
私は涼をベッドに横たえると、再び一階に降りて書斎に入った。深く暗い谷底へと引き摺り込まれるようにして床に座り、薄く、閉ざされた黄衣の王を開く。私は自らの奥底よりの呻り響く声に導かれるまま、彼の戯曲の最初から最後までを、我が身に刻み込むように一言一句の全てを引き込み覚えるために読み通したのである。
+ + +
轟裂に軋みあげる激情が万雷のように切りつけ、刺し貫かれた我が身は傷口より吹き出した血の飛沫をようやく抑えることができたものの、しかしなお私は荒い呼吸を繰り返し、また正気を取り戻すことが出来ないでいた。地を揺るがすように心の鼓動が強く、早く打ち鳴らされる。悪意のビーコンが明滅するように大きく深い呼吸を繰り返す肺に冷気が食い込み、胸から全身が凍り付いていくのを感じる。比重の重い金属質に変わってしまったかのような冷たさが手にのしかかり、もはや支えることも出来ずに本が床に落ちる。
ああ、なんとしたことだろう。この戯曲に彩られた言葉たちはいまや私の中で厳粛な旋律を奏でている。よもや私が知り得る言語の解をも越えて、彼の主の姿が私の脳裏に、眼球の裏側に浮かび上がっていく。もはやこの世界のあらゆる言葉を用いても、畏怖の念が、畏敬の思いがすべてを阻み、明確に記すことは許されないとわかっている。しかし黄衣の王なる書において、大いなる決意の下、塔へと挑んだ彼の者の滑稽な勇気と万死に値した罪深さとを思わせるほどの物語が、これを記した者を語っている。純然たる結晶のように澄み渡る言葉が、月を見上げ闇の中にあって光り輝く言葉が、こうこうと湧き上がり満ちていく泉のほとりに立ちすくむ言葉が、天の福音のごとく奏でられた癒しの言葉が、無知も賢なる者をも等しく理解しうる言葉が、呪われた死よりも恐ろしく圧倒する言葉が、魂の希望無き地獄に、人の心に這い寄る言葉に魅了され麻痺した者へ、怒りも、悲しみや諦観をも青い仮面の下に飲み込んだ主の慈悲によって罪と罰とを、そして赦しを告げている。
私は、否、私たちは心の中に鈍く単調に語り合っていた。同じ書を読み、その全てを知るに至った時から、離れていてもなお互いの心が通じるのを感じる。影が集う気配に気付くこともなく、霧の果て、鏡のように張り詰め、波打つことを忘れてしまったかのような湖面の水の上に立ち尽くす王と仮面の妖しい双眸の見つめる先、ハリの岸辺に立つ涼と、それに寄り添う私とは、ハストゥルとカッシールダの姿であったのだろうか。
すべての謎は明らかにされた。涼が味わった罪の苦さを私自身も知るに至り、それは私の、そして涼の心をも暴いてしまったのだ。黒い教会の鐘が打ち鳴らされるのを聞き、私は声をあげて、腕と足とに熱せられ柔らかく液体に変じた鉛が注がれるのを感じた。焼き印を押され、獣のように呻り悲鳴をあげる私が見た物は、爛れ、沸騰した手が真っ白に膨れ皺を刻んでいく様子であった。体液が濁り膿と化して内包され、鱗のような瘡を形成する。私は全身を震わせて罪の宣告に絶叫した。腕や足だけではなかった。腹や背、顔までをも、私はあらゆる場所から、あらゆる角度から責め立てられ、全身を焼き尽くされていく。苦痛にのたうつことも許されず、ただ罰を受け入れ、世界より乖離した声で叫ぶ。荒涼の風が過ぎ去り、何者かの気配を感じて私が振り返った先にいたのは涼だった。書斎の扉の、初めて会ったときのように影から私を見ている。私は彼女の目に、絶望と悲哀が歪み刻まれたのを見て、全てを理解した。
私だ。私だったのだ。
ハスターの証を探して家を這いずり、彼女を恐怖させ悪夢を与えていたのは私自身…。
扉の影から飛び出し、涼が入ってくる。私は叫んだ。
「来るな! 涼、来てはダメだ!」
私は骨身を溶かし、もはや垂れ下がり動かなくなった足を引き摺り、まさしく蛆虫のように這って彼女から逃げようとした。書斎に逃げ場などあるわけもなかったが、ただ涼の前にこの身を晒すことだけはしてはなるまいと、私は暗がりを求め闇に消えてしまおうとした。
そんな私の思いさえ通じず、また逃げられるはずもなく涼がすがるようにして私を抱きしめて離さなかった。
「ダメだ、逃げるんだ。今すぐ、逃げてくれ。ここにいてはダメだ」
動けない私に覆い被さり、頬を伝って涼の涙が私に降り注いだ。その涙の先に、涼と目が合った。
「ごめんなさい…ごめんなさい、章人さん…」
すでに面影も、その声すらもあらざる者へと変わり、私を私自身足るものとしていたものはすべて消えてしまっただろう。しかし、蛆虫と化した私の冷たくふにゃふにゃの体にしがみつき、顔を伏せて涼は泣いた。その涙の意味を、謝罪の言葉が意図した先をも、とうに皺の中に埋没してしまったであろう耳に私は残酷な告示を知る。こんなはずではなかった。こんなことはもう望んでいなかった。あの時からもはや離れ旅立ち、未来を見つめ共に歩んでいこうとしていたのではなかったのか。幸せを、ベルトコンベアーを流れる工業製品よりも画一的な、ごくありふれた幸せを手に入れたくて、残された唯一の希望を頼りに、それにたどり着くことも築いていくこともできたのではなかったのか―――
だが、もう叶わない。黒い教会の、錆び付いた金属の門が耳障りな音を立てて開かれてしまった。ただ静かにすすり泣き、すがりつく涼に、私は最後の願いを託して懇願した。髪留めを、縞瑪瑙の飾りを投げ捨ててくれ、と。いまや私たちはその古風な象眼細工の飾りがヒヤデスの神秘に彩られた仮面の王へと通ずる黄の印であることを知っている。しかしそうした願いさえも月を望むかのようにすべては無為に散り、届きはしなかった。もはや彼女にそれを髪から外し火の中へと投じるだけの行為さえ許されてはいなかったのだ。闇よりも暗い色に染められた霊柩車がゆっくりと走り出し、私たちを迎えにやってこようとしている。夜闇の霧が集い、より深く、白い暗がりが私たちを包み込んでいく。 私は己の全てを賭けて腕を動かした。骨を失い、肉がのたうつだけの体はわずかな動作にさえ応えようとしなかったが、私は唸りをあげ、あらゆる力を振り絞って腕をあげ、涼の顔に触れた。もう、何も感じられない。頬を伝い、うなじをかき分けて髪留めに触れ、震える手に満身の力で以てそれを涼の髪から投げ捨てる。解けた髪が羽のように広がり、肩に垂れて涼の顔を隠す。投げ捨てられた髪留めは音も立てず、闇のどこかへ消えた。
雪の降る音が聞こえる。ただ静謐だけがある。
私は、この身の中に車輪の音を聞いた。ゆっくりと、ゆっくりと、それは近づいてくる。脳裏に、輝く洞穴のような壁面の先、黒い十字を掲げたアルデバランのミサに、私は跪いて告解する。カルコサの住人たちが彼の王を讃える聖歌を歌い、それはついにやってきた。
私は再び呻りをあげてのたうち回った。抱き留めていた涼を振り切り、沸き上がる灼熱の風が皺だらけの体を焦がさんと押し寄せ、床を転がる。
来る。
「逃げろ…すず、か…」
もう涼がどこにいるのかわからなかった。ただ彼女の声だけがすぐ近くから聞こえるのだけはわかり、もしかしたらなおも私にすがりついているのかもしれなかった。それが私には絶望以外の何者でもなく、十字架に磔にされる思いで、何度も、何度も涼に逃げるよう声にもならない声をあげ叫ぶより他になかった。
車輪の音がすぐ近くで止まる。私の体は引き裂かれ、ついにすべての感覚を失った。涼が悲鳴を上げる。闇よりの使者に先導され、現れた王は半ば宙を漂いながら、青白い仮面を傾けて彼女を覗き込み、鮮やかな黄色の襤褸を開く。その中に涼は闇よりも重く、深い魂の墓場を目撃しただろう。恐怖も悲哀も圧し、コートの中の闇が涼へと伸びた時、黄衣の王は青い仮面に手をかける。溶けるように消えた仮面の奥に何を見たのか、それを知ることだけは許されなかった。
+ + +
雪は深まり、私の家はいま白く閉ざされようとしている。それらが溶けて過ぎ去り、山に緑が舞い戻ろうとする頃に、あるいはもっと先で誰かが私たちを見つけるかもしれない。
雪深く凍り付く中で何が起こったのか、人々はあらゆるものを頼りに調べ、見聞きして想像することだろう。山の中に立つ古い家の書斎で静かに眠りに就いた女性の身に何が起きて、なぜ彼女が死へと到達したのか、その理由も明らかにはできまい。この家の主がいずこへと消えてしまったのかと想像をかき立てては、下世話な妄想に酔いしれて肥え太ることだろう。そして涼の脇で、肉か、あるいは気味の悪い塊が崩れてできた山がかつて人であり、人を愛した者であると理解することはできないに違いない。
私はいつ、いつから狂ってしまっていたのだろう。見る者が見れば、どんな方法も論理も思い浮かばずとも、私の身がすでに人のそれでなくなるのに十分な時間の経った死体であったと思うであろう。しかしそれよりも前から、私は破滅していたのかもしれない。
ただその死体が最後に触れようと伸ばした手の先にある、その言葉こそが最後の真実であり、私がついに知り得た真意そのものであった。
Let the red dawn surmise
What we shall do,
When this blue starlight dies
And all is through.
(燃える暁に思い馳せよ、我らは何を成すべきなのか
この蒼の星明かりも耐えて、すべてが過ぎ去ろうとする時―――)
二度と目を覚ますことのない眠りに落ちた涼を見、追うこともできないことを呪っている。
この呪われた世界を見た者がすべてを封印してくれることを願ってやまない。
私はどこで過ちを犯したのか、それだけが―――
Fin...
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