Dancing in the Yellow



























 雨の中を彷徨さまよっていた。

 幾重に織り重なり垂れ込めた雲はその身と手を広げて山々に降り注ぐのだろう。地に降り立った子供たちはやがて身を寄せ合い集まって、川となり流れに導かれて街へ注いでゆく。
 私もまた、そんな流れに引き摺られ、どこからか流れ着いたようだった。
 説明しがたいことは、あまりにも多い。一体、何者が私に、みぞれ混じりの雨と雑踏の靴音の中に、夕刻の木漏れ日を浴びて長い髪を揺らしながら、ふと森の木々を見上げた玲子の「ああ、今年も青桐あおぎりの一葉が落ちて秋が来る頃になったのね」と言った言葉と、あの柔らかだった笑みを思い起こさせるのだろう。
 万木ゆるぎの森は、その時すでに知っていたのだろうか。もはやどこを彷徨い這いずって、泥の中に溶ける人形のようになり果てた私の、この場所に至り、なお行く末も見通せなくなった洞穴のような眼には何者をも導きにならず、どこへ流れゆくのかもわからなかった。
 ただ雨の中を彷徨っていた。
 いつの間に土と落ち葉だった足元も絶えて、無機質なアスファルトが私のかかとを叩いていた。市街を行き交う人々は雨の冷たさに打たれ、一様に傘の下で顔をうつむかせている。一人、雨降りの慣例に離れ傍観者ぼうかんしゃとなっていた私には、それが薄布で面を覆い隠す色彩豊かな黒子が交差点を行き交う様に見えた。
 車輪の音もないのに、律儀にも人々は交差点のシグナルに従っていた。白線の手前に横列を作り次々に人と布の塊たちが並んでいく。あっという間に交差点の前は人間でごった返し、その中に私も飲み込まれた。
 ここにきて私は少しだけ意識を取り戻した。同時に、次に頭上に掲げられた青と赤の光が互いの色を交換した時、私はまた無気力にも流れに引き摺られていく自身の無様を予感した。傘を差す気力もなく、雨に濡れる苦痛すら忘れたその男の姿は奇異きいであったろう。しかし、この場所に偶然にも形成された運命共同体は、そんな私の存在さえ許容し、共に歩くことを強制する。
 私は愚かさを呪った。この流れに引き摺られ、彷徨い続けることを、あるいは望まれたことだとでもいうのだろうか。骨身を泥のように溶かし、それを適当な誰かに責任を押し付けて、何を得ようというのか。

 笑ってくれ、大いに、侮蔑ぶべつの眼と共に―――

 盆の覆水を傾けたように、予想通りの流れが生まれた。無言の意志に従う人影は一斉に対岸の同士と包容し、熱いキスを交わそうと駆け出していく。
 背を押されるようにして、私もその重い足を引き摺る歩みを踏み出そうとした。
 その時、不意に流れに反し、あらぬ方向からやってきた何者かと私はぶつかった。
 みぞれ混じりの雨に打たれ、傘もなく、濡れた我が身をかえりみない襤褸ぼろのようなもの同士。

 あれは幻の姿であったのだろうか―――




 1


 その男は存在しないはずだった。少なくとも私は気付いてはいなかった。

 今朝の外は実に心地よかった。森の木々の合間にかすみが流れ、凛とした空気はそのまま空まで抜けるように青く澄み渡っていた。日課とも言えるものではなかったが、私はふもとの街よりも少し早い日の出とともに、いつものように山の獣道を散歩に出掛けていった。迎春に沸いた俗世の足並みを伝えに来ていた小鳥遊たかなしの息子の、あの浮かれた顔も今は少し落ち着きもした頃だろうが、私に至っては山の風に変わることはなかった。山だけはただ、静謐せいひつな息遣いを絶やさずに私をひどく落ち着かせている。そんなかすみまとう空気を友のように思って久しく、いつものように散歩から私は帰ったのだった。
 そしていつものように、仕事に取りかかるはずだった。

 今は少々寂しい風体になってしまっている我が家の庭を越え、玄関を開けた私は、作業場に行く前に一声かけておこうとすずかを呼んだ。勝手知ったる、といえば、まあ聞こえは宜しいだろうが、空が白むと共に出て山中の襤褸ぼろ小屋まで毎日通うとは、物好きも通り越して彼女の熱心ぶりには感心してしまう。不用心だと警告されるので施錠してあった玄関が開いていたのが、今日も涼が来ていることを告げていた。
 私は二度ほど呼んだが、涼はいつものように彼女しか使わないスリッパの音をパタパタとたてながら、しかし玄関にはやってこなかった。一瞬、彼女はまだやってきていないのではないかと思ったのだが、鍵が開けられていることを考え、不審に思った私は靴を脱いで敷居しきいまたいだ。
 すずかは二階にいた。彼女は朝早く私の家にあがると真っ先にバルコニーに出る。山を駆け下りてくる風は驚くほど枯れ葉や土を運んできて、一日かそこら放っておけばバルコニーはさびれの溜まり場と化してしまうのだ。そのため、涼は必ず最初にそこの掃除をする。今日もその慣習に反れることなく、掃除をしていたのだろう。
 単に落ち葉を退けるのにあまりに熱心であったために私の声が届かなかったのなら、可愛らしいことだったろう。しかし私がバルコニーに続く廊下へと到ったとき、見えたのは出窓のガラスに背を預け、小さくうずくまっている彼女だった。驚いた私がバルコニーに出て涼を呼んだとき、彼女はほうきを握りしめて家の軒先を一点に見つめ、小刻みに震えていた。肩を揺さぶられるまで涼は我に返らなかった。
 動揺する涼をなんとか一階のリビングまで連れて行った私は落ち着かせるために彼女がいつも私に淹れてくれるハーブティーを作ろうとした。が、茶葉の配合を知らなかったために、私は自他共に認める不味い日本茶を淹れる羽目になった。
 それでも私の不器量も手伝ったか、時間が立って涼は少し落ち着きを取り戻した。私は慎重に何があったかを訪ねた。

 涼は初め、その男には気付かなかったと言った。
 私がそれを疑わなかったように、彼女はいつも通りに私の家にあがるとすぐにバルコニーへと向かった。
「昨日はそんなに風も吹いていなかったから大丈夫かと思ったんですけど、あがってみたらちょっとびっくりするくらい落ち葉が溜まっていて、ムキになって掃除に没頭してしまったんです。それで、気付かなくて…」
 涼は自身の不用心さを恥じていたが、私には特にそれを問い詰めたり、責めるつもりは毛頭なかった。というのも、そもそも私の家は街の郊外のさらに外、よほど熱心か、さもなくばあぶれた営業者でさえ足を踏み入れることを躊躇ためらうような山の中にあり、人が軒先に現れることはめったになかったのである。そんな木々の合間に潜めるような、深く薄暗いところに通おうなどとする涼はそれだけ私にとっては奇特、もとい貴重な人間で、だからこそ彼女の中にも自分を除いて人が来ることはないという前提がどこかにあったとしても、それはごく自然な、無理からぬことに私には思えたのである。
「それで、見知らぬ男がいたんだね」
 涼は頷いた。
「やっと落ち葉を集めて一息ついたところで、門の方に目がいったんです」
 それでも当初は辺りの木々とその陰、まだ揺らめいていたかすみに紛れるようにして、男が立っているとは思わなかったという。
「すごく、気味の悪いひとでした。そこにいるってわかってから私も目を凝らして見たんですけど、家の方に背を向けて、こう、首を深くうつむかせていたんです。家に入ってくる様子もなくて、ただ立ってるだけなんですよ」
 涼は思い出してまた恐ろしくなったのか、細い指をさらに白くするほど湯飲みをきつく握り締めた。
「その男の何がきみをそこまで嫌悪させたんだい?」
 私の言葉に、涼は深く息をして自身を落ち着かせようとした。涼は穏やかな気質の女性で、訳もなく人を嫌ってみせるような理不尽をむ心の持ち主だと私は知っている。その彼女にこれほど蛇蝎だかつを見るかの如き目をさせた者とは一体何者であろうか。
「その人の手に気付いたんです」
「手―――?」
「青白くて、しわだらけの手だったんです。まるで血が通ってないような、でも、濡れているみたいにつやがあって日の光に反射していたんです。バルコニーから距離もあったのに、どうしてそこまで見えたんだろう…。でも、浮き出た血管が皺の間中を張り巡らせる様子まで見えて、とても気味悪くて…見入っていた私に気付いたのか、しばらくしてその男が振り返ったんです。手と同じで、顔から首筋まで皺が―――そこでわかったんですけど、普通の皺というより皮膚がぶよぶよにただれてできたような皺なんですよ―――びっしり刻まれていて、腫れぼったい顔の奥から暗い目で私の方をはっきり見上げたんです」
「それで驚いて腰を抜かしてしまったのか」
「はい。もう本当に怖くて…」
 若い女性にありがちな、不安に起因した過剰な嫌悪や警戒感は時に人を怪物にせしめることはある。涼には珍しくも思ったが、私はというと、彼女の説明から我が家を取り巻く緑を葉に見立て、その中で膨れた蛆虫が身を捩る様を思い浮かべていた。
 私は立ち上がると窓辺に向かい、レースのカーテンの隙間から門前を伺った。
「先生は帰ってくるときに見なかったんですか?」
「いや、私はいつも通り玄関から入ったが、誰もいなかったよ。そして今も見た限りでは誰もいないな」
 カーテンを開けてみても、そこに映るのは冬の風に晒されて眠りについた墓地のような庭と、今は霞も晴れてその先にある森の緑と山の稜線が朝日の中で織りなす深いコントラストの情景だった。今日は時間が過ぎてなお遠く立ち並ぶ山脈を伺えるほどひどく空気が澄み切っている。不穏の影を伺い知ることはできなかった。
 私は腕を組み、うむと呻いて、とにかく彼女の不安を取り除こうとした。
「まさか君が枯れ木を見間違うはずはないしな。何者か知れないが、しばらく用心しておこう」
 そう言って振り返ると、涼が私の方を見ていた。少し驚いたような、安堵したようにも見える表情を浮かべて。私が眉根を上げたのを見、涼は恥ずかしそうに言った。
「もしかしたら鼻で笑われてしまうかもって思ってました」
 普段、私がどういう態度をしているか、時折涼は鏡のように映し出す。
「私だって、たまには人の言葉も信じて見るものだよ」
 やれやれと頭を掻いたが、見てもいない、どこにいるかもわからぬやからを相手に、さて、用心とは言ったが、如何にしようかと私はぼんやり考えた。さしあたって有効なことは思いつかなかったが…。
「涼、とりあえず今日はもう帰りなさい」
 私の言葉に涼はきょとんとした。
「怖い思いをしたんだ。無理に掃除なんかしなくていいから、帰って休んだ方がいいだろう。日のあるうちに送っていくよ」
「でも、」
「いや、いいんだよ。それでなくとも君はここのところ毎日私のところに朝早くから来て、日が沈むまでいるだろう。疲れてるんだよ。暗い山道を一人で歩かせていた私にも責任がある」
 柄にもないことを口走り、私は息をついた。少々上気したのか、手にむずがゆさを覚える。
 私に言われたことをじっくりと解きほぐすように涼は考え、旨くもないだろう茶を飲んで言った。
「でも先生」
「ん?」
「ちらっと見ただけでも書斎と居間がすっごく散らかってましたよ」
 ひび割れるように、私の額に皺が刻まれたに違いない。
「昨日ちょっと探し物をしてね。なに、あんなものはすぐに片付ける」
「あと、手ぬぐいと作務衣さむえ洗濯籠せんたくかごに山積み」
 眉にも、それは深く刻まれたに違いない。
「お台所は綺麗でしたけど、まだなにも食べてないんでしょう?」
 さて、涼を怖がらせた男と私の今の顔はどちらが醜い様を呈しているだろう。
 ぐうの音もない私を見、しかたがなさそうに涼は笑ってため息をこぼした。
「展示会の器もまだ出来上がってないんでしょう。私は大丈夫ですから、始めてください」
「いや、そうはいかないよ。片付けは自分でやる。飯もなんとかする。洗濯だって後回しで構わんから―――」
「今日着るものがあるんですか?」
 見事な一突きに、ついに私は標本に縫いつけられた蝶のごとく大人しくならざるを得なかった。
「…でも、」
 涼は湯のみを置いた。中の茶は飲み干されていた。
「先生の言うとおりにします。お洗濯だけしたら、今日は帰りますね」
 私は情けなく肩を落としたが、まあ、日が暮れる前に山を降りられればいいだろうと自分を納得させ、手のひらを擦った。


+ + +


 じゃあ、作業場にいるから何かあったら呼びなさい、と言ったまでは良かったが、そこに至るまで結局私は作務衣の用意から朝のトーストまでを涼に頼ってしまった。人が己の姿に気付くのはこういうときなのかもしれないが、決まって思う自身とはかけ離れた情けなさを伴うものであるらしい。
 ともあれ私が作業場に入ろうとした頃には涼もいつもの快活な動きを取り戻して、青ざめていた表情も朗らかになっていた。それで私も少し安心して土に向かうことができた。

 ―――のだが、そこからは私の不運が始まった。

 なぜだろう。作業場に入る頃になり、私の中に得体のない不快なものがあった。轆轤ろくろを回す微妙なさじ加減が狂っていたのに気付いたことを契機に、一心を込めた指先は見事に気を散らして土に乱れ髪のような猥雑わいざつな模様を刻んでしまったのだ。それを認め修正にかかろうとする頃には、病的な立ち姿は救いがたいまでの悪しき前衛の化身のようになるほど、私の眼をも闇にくらんでしまっていて、時間をかけ、心を注がんとした器の種はあっという間に破滅してしまった。耐えきれず私は土に拳を叩きつけ、泥に変えた。
 それでも亡霊は去ろうとはしなかった。気を取り直そうと、また荒れた自身をしずめようと土を捏ねるところに立ち帰ってみたものの、今度は土に触れる手の感触さえおかしかった。まるで水をたらふく飲んだナメクジのように柔らかく、いとも簡単に土が手のひらの下で潰れていってしまうのだ。土を寝かせる時間を誤ったのだろうか。もしや、この田土ひよせを掘り起こし黒土と混ぜて私に売り込んだ藤田に悪意なき失態が入り込んだか。今度会見した暁には器一枚における恨みの重さを、あの張り出した腹の脇から如何にしてグサリと刺し込んでやろうかと、今はまるでしつけのなっていない幼子のような種土と戦いながら、いつしか私はその未来を思い描くことばかりに心を奪われていた。蛆虫の軟体を潰しているかのような感触が、私の心を奥底からかき乱していく…。

 失意と嫌気に味付けされた煙草の煙は想像を絶して悪かった。にもかかわらず私はわずかに吸っては潰し、なぜかまた火をつけることを、作業場の脇に設けられた灰皿の前で繰り返していた。
 これは取り返しのつかない病気であるように思えた。地獄の沙汰を見下ろす彼の彫刻の天辺てっぺんに座する者のように、私は灰皿の前に置かれた粗末な切り株の椅子に腰掛け自身を蔑視べっししていた。
「先生?」
 声がして顔をあげると、涼だった。綺麗に畳まれた手ぬぐいを持っている。
「休憩ですか?」
 あまりにも他意を含まない純粋な言葉で、私はげんなりした。皮肉も返せず無言で目をつむるしかない。そんな私の無礼な態度は慣れっこの涼は問いただすわけでもなく、手ぬぐいを置きに作業場の引き戸を開けて中に入った。彼女はそこで阿鼻叫喚あびきょうかんを目撃したはずである。手ぬぐいも置かず、引き戸から駆け出た涼が私を見た。
「先生、何があったんですか!?」
 驚きの表情そのままに叫んだ涼に、私は冷ややかに凍りついて応えた。
「なにも―――」
 また煙草を潰した。
「なにもありゃしないよ。あるわけもない」

 作業場の惨憺さんたんたる様子は涼に再びショックを与えてしまったようだった。
「みんな潰れてしまってます」
「私が潰したんだ」
「どうしてですか? あんなに時間をかけて作っていたのに」
「私の手がゲロゲロになっちまったんだよ」
 私は頭を掻き、その頭を掻いた手のひらを実に禍々まがまがしい思いで見た。
「藤田の土になにか混ざっていたのかもしれない。あるいは作業台の足がぐらついていたのかも。でなければあんな風に叩き潰すほど造形が崩れるわけがない」
 まるで若年性の癌細胞のように、病気は私を、そして作業場の棚で乾きかけていた我が子らにまで急速に拡大していった。否、癌が他者へ移るはずはないから、結局は私が潰したのだろう。造れば潰し、こねれば泥と化し、出来かけは割ってしまった。愚図ぐずも極まれば途方もなく、寒気すら覚える勢いで作業場の棚は寂しくなり、自身の中に感じられたのはいっそ後悔ではなく、虚無感だった。
 私の精神衛生上よろしくなかろうと、そういうことはしないようにと涼には忠告されていたのだが、今度ばかりはやりきれなさに衝動を抑える術を私は見出せなかった。衝動がもたらす快楽は言わば自己破壊という人間の本能だった。破滅的な活動の中に、本能は私に真実を確かに伝えていた。土も台もおかしくなどなっていない、と。おまえ以外の何者にそれを成し得るのか、と。真実とは、私のささやかだった理性を踏みにじる怒りだった。いつしか、それを正しく認識することは困難を極めたが、私は自身の中に湧いた白面の影を感じ、それに激しく苛立ち、恐れていた。
 今はもはやただの土塊つちくれと化した我が子らの亡骸なきがらを片付ける作業を涼が手伝ってくれた。海潮うしおのように湧いた衝動も過ぎてしまえば穏やかなもので、また冷たくもあり、私はもう彼らが近い未来に約束されていた姿を取り戻せなくなったことを思っても、再び心が乱れる様子を見せなかった。土塊を重ねていく様は野戦病院の遺体収容場所を思わせるむなしさがあったが、また再生することだけは祈っていた。
 大方の片付けが終わり、作業台も拭いて手を洗っていると、涼が出来損ないの山と化した土を眺めながら呟いた。
「私が、あんな話をしたからですか?」
 その、涼の申し訳なさそうな目や口調にあてられて、いつ責めるような言葉を吐かなかったかと私は心底心配になってしまった。
「あの変な男を見たなんて、気味の悪い人の話をしたから―――」
「私がそんなに感受性豊かな男だときみは思っているのか」
 知らず、必死な口調が混ざる。
「誓っていうけれど、君のせいなんかじゃないんだよ。いつもの癇癪かんしゃくだ。さすがにここまでやってしまうのは自分でも訝しく思うけれども」
 ただ、私の気が変えられたとすると、確かに涼から青白くしわくちゃな男の話を聞いてからだった。それまでは私はいつもと変わらず、もしろいつもより気分が良かったと思う。だからと言って涼の話の何者が私にたたったのか、そこまではわからなかったし、知ろうとも思わなかった。手のひらから肩甲骨にかけて走る神経がざわつくのにさえあらがい無視を決め込んで、単に今日は調子が悪かっただけだと私は自身に言い聞かせた。
「全部、私のやったことだ。君が気にすることじゃない。振り出しに戻っただけのことだよ」
 言いながら、果たしてこれは誰に向けて放つ言い訳なのか、自身に言い聞かせようとするある種のしつけのように思えてきた。居たたまれなくなり、また言い訳を続ける気にもなれず、私は半ば逃げるようにして作業場を出た。それに涼も続いた。
 居間に入り、腰を伸ばそうとしたところで私は時計を見た。それに涼がわずかに早く言う。
「もう午後1時をまわっていますよ」
「ああ、こんなに長くやるつもりじゃなかった」
 塩をかけられたナメクジよりもろくな行動を取れていなかったくせに、思いの外、時間を使っていたようだった。今日はもう、なにもかもが普段私が頼る感覚のそれとはかけ離れた彼方かなたにあるようだった。唯一変わらなかったのは、不意に見上げた時計の時刻に呼び起こされるようにして腹の中でうごめいた、いつもの空腹のサインだった。


+ + +


 今日はどこぞのスーパーでセールがあり、そこでまとめ買いをするつもりだったのだと、涼は告白した。まだやることがあるのではないかと巣作りの小枝を探すビーバーのように働きたがる彼女をどうやって目覚めさせようかと考えるうちに、私はふと冷蔵庫の扉を開けていた。私はビールを飲まない。山の坂道を登る涼に重い瓶を運ばせるのに気が引けるのもあるが、そもそも炭酸の類が苦手なのだ。私が夜の友に楽しむ酒はウィスキーやブランデーがほとんどで、それらの保管場所は窓を閉ざした、薄暗い納戸なんどと決まっている。と、すると私は涼から、彼女が自宅へと帰ってしまった後の夕食などで作り置きしておいたものがあると指示された時を除いては、まず冷蔵庫を開けないのだった。まったく開けないということはない。が、大抵、水割りに始まりロック、ストレートと度を強めていく中で芳醇ほうじゅんな香りに酔いしれ、星月を相手に無言で語る席のさかなが欲しくなったときには開けたりもするのだが、何を取り出したかもほぼ覚えているものではなかった。従って、私は冷蔵庫の中に何物が収められているか知らず、そこに素面しらふで手を伸ばしたのは、涼はきっとすでに何か用意してくれていて、だからこそ彼女に今日の仕事は終わったのだと説得する口実を求めたからであった。扉の向こうにはミネラルウォーターや緑茶のペットボトルがあり、ベーコンやチーズといった簡単なものこそ黄土色の光に照らされ収められていたものの、不器量な男の舌を楽しませてくれている涼の手が加えられた料理の類は何もなく、ほぼがらんどうだった。
「久しぶりに街で夕飯の食材を買いに行くことにしよう」
 私はすがるような思いで宣言した。
 冷蔵庫が空だったのは、それはそれで私にも好都合であった。ようするに半分は意地なのだった。とにかく涼を今日くらいは早く家に帰してやろうと思い、それが自身の勝手で遅らせるということが、いつになく許し難いことであるように思えてならなかったのである。あざ笑うがいい。如何なる権利にすがろうとも家事全般、飯のアテすら握られれば、その善意を前には手も足も出ない。涼には申し訳なくも、しかし私にとって、こうと決めた彼女の思いを曲げさせるための説得はこれほど非常に困難で、苦労もはなはだしいことでもあったのだ。ともあれ私が出掛けると宣告したことでようやく涼は帰り支度をしてくれた。


+ + +


 涼が山道を走るのに重宝すると言って愛用するMTBは華奢きゃしゃな彼女にはやや似合わないと私は常々思っていた。が、自身に言えたクチかと思えば、指摘することは自重せざるを得ないだろう。太く、ゴツゴツとしたブロックパターンのタイヤを転がしてラチェットの噛み合う小気味良い音を立てさせながら自転車を涼が手で押し、その隣に私という位置関係で、私たちは珍しくも二人で山を下りに歩き出した。
「すみません。今日は何もできなくて」
「そんなことはない。いつもきみはよくやってくれている」
 私の言葉に涼は恥ずかしそうに首を傾げて見せた。すっかり葉を落として眠りについてしまったブナの木を見上げ、私は遠く流れる渓谷の流れに耳を傾ける。
「今年はいつも以上に冷えるが、雪が少ないな」
「前は大変でしたから。私はお天気が続いてくれた方がいいです」
「まあ、そうだな」
 一度なり寒波に空が覆われたとき、私は家までの山道を雪と路面に張り付いた氷に閉ざされて、孤立無援の中にいたことがある。白銀の直中にあることに恐怖がなかったわけではなかったが、すべてのコントラストが消えゆく様に私は一つの喜びを見出そうとしていた。呑気なものだと涼には大変に怒られた。というのも、下界では涼をはじめとする私の残り少ない縁者えんじゃたちが私の身を案じ、一つの騒ぎになろうとしていたのだ。寒波が去って彼らが私の家に駆けつけることができたとき、そこにいたのは向かい合う土も凍り付いたことに絶望し、書斎の一切の本を引っ張り出して、その直中で薄い背表紙に読み耽って、だらしなく口髭くちひげを蓄え山男さながらの風体と化した私だった。
 およそ一週間であったと私は記憶している。その間、ほとんど飲まず食わずであったにも関わらず、寒波の中で身を守る手段をほとんど講じていなかった。実際、命に関わるようなことにはなっていなかったのだが、巡り巡ってそれが涼の耳に届き、彼女はとても心配して、ついに私に身の周りの世話をすると宣言したのだ。
「雪のない冬も悪くない。この冬はこのまま続いて欲しい」
 今の私はそう願っていた。雨の記憶の、その後に私がながらえることができたのは、確かに涼のおかげであった。
 山にもって悠々自適に暮らすことは、私が求めてきた夢でもあった。が、今に至り、そこに自身を置くようになってから、それもまた多くの難題を抱えていることに気付いていた。やってみなければわからない、とは言うが、やってみてから困ることは、やはり多かったのである。

 山の下り坂を越え、ふもとの街並みが近づいてきた頃になり、涼がぽつりと私に尋ねた。
「先生、ちょっと話してもいいですか?」
「なんだい?」
 涼は一瞬、躊躇ためらうように間をあけた。
「実は今朝の男の人を見たときに驚いたのは、その人を見たことがあったからなんです」
「なんだって? どこで?」
「いえ、どこでもないです。見たと言うよりは出た、と言った方が正確かも…。夢の中に、あの人が出たことがあったんです」
 私は涼が何を言わんとしているのか、理解しかねていたが、彼女に続けるよう促した。
「最初にその夢を見たのは去年の夏頃だったと思います。普段、そんなことはないんですけど、どうしても寝付けない日があって、その日に限ってはずっとベッドの上で寝返りばかり打ってました。壁掛け時計のルミブライトの針が真夜中を差して、一時になり、二時を差して、それでも眠れなくて―――。空が白んでくるのを感じて目を開けたとき、私は窓のそばにいてカーテンを開けたんです。でも窓の外はいつもの街の様子からは想像もできないほど灰色にくすんでいて、まるでゴーストタウンのように静まりかえっていました。怖くなって目線を下に向けたとき、私の家の前にあるはずもない、真っ黒な外壁に覆われた教会が建っているのに気付きました。いつの間にそんなものが建っていたのかと思って、外に出て教会の門の前まで出たときに、通りの先から車輪の音が聞こえてきたんです。まるで私が出てくるのを待っていたように…ゆっくりと、少しずつ車輪の音は大きくなっていって、とうとう通りの角から真っ黒な車体が顔を覗かせたんです。その車は、霊柩車でした。陰のような教会の門に、その車はまっすぐ向かっていって、私の横を通り過ぎようとしたときに運転席でハンドルを握っていた御者が不意にこっちに振り向いたんです。目が合って震え上がりそうになったところで、やっと私は目覚めて、夢だったと気付きました。シーツを握り締めて、汗びっしょりになって。秋口にも同じ夢を見て、私はやっぱりベッドの中で震えていた…そんな夢を、昨日また見てしまったんです。夢の後は決まってひどい顔になるので、今日は少しお化粧をしてクマを隠さなきゃいけなくなっちゃいました」
 最後の方で涼は気遣いからか、少しおどけた感じに言っていたが、その声は震えていた。私は彼女の化粧に気付けなかったことをようやく自認して、平静を繕って、うむ、と頷いた。
 涼はまっすぐに私を見、覆い隠すのはもはや難しかったのであろう、その不安をあらわに続けた。無意識か、口元に運ばれた彼女の白い手が、それを私にも理解し得る形で伝えていた。
「その、霊柩車を運転していた御者が、今朝先生の家の門前にいた男だったんです。最初は、もちろん見間違いだと思いました。けれど、あの顔と、ハンドルを握っていた手だけは夢の中の彼以外の何者でもなかったから…」
「滅多なことを言うものじゃないよ」
 そろそろ私たちは互いのように行く道を分かとうというところまで来ていたが、私は立ち止まり、山の風に晒され揺れる木葉のように震える涼の肩に触れ、彼女を落ち着かせようとした。
「疲れているんだよ、きっと。夢の中の住人は現実には出てこない。君は夢と、その男への恐怖心を混同しているんだ」
「でもっ…!」
 顔を上げた涼の目にはうっすらと涙の筋が引かれていた。それが少なくとも彼女は虚構や出鱈目でたらめな感覚に混乱しているのではなく、私が言ったことには拒絶をしなければならないほど、確かな感触でもってそれを信じているのだと、必死に訴えていた。
「私はもう三度もあの夢を見ているんです。最後、あの男は必ず霊柩車の中から私をじっと見つめている…あの顔を忘れたり、普通の人と見間違えたりするはずないんです」
 思わず叫ぶように語気を強めていたことを自覚し、はっとした涼は私から目を背け気まずそうに「ごめんなさい…」とこぼした。
 私はただ心配になって言った。
「涼、今日は一人で大丈夫か?」
 彼女の両親は、まだ土を捏ねることすら覚束なかった頃の私にまだ幼かった涼を紹介してくれたその人たちは、もう亡くなっている。いま涼は両親が残そうとし、唯一それが叶った家で一人、暮らしていた。こんな時に他に息づくものも絶えた広い家に一人残されて、不安がフラッシュバックしないだろうか。
「今日はもう、早く寝てしまいなさい。好きな音楽をかけて旨いものを食べて、温かくして寝てしまえばいい。そうすれば不安な夢なんて見ないだろう」
 私の精一杯の言葉に、今度の涼は耳を傾けてくれた。ぐすっ、と鼻をすすった。
「先生」
「ん?」
「信じてくれるんですか? その、私の見た夢のこと」
「信じるよ」
「今朝の男の人のことは…」
「それも信じる。だから、まあ、私に言えたことじゃないが、家の戸締まりはきちんとしておきなさい。不安だったら友達を呼ぶのもいいだろう」


+ + +


 そこまで話してようやく、私たちは残りわずかとなった分かれ道までの道程を再び歩き出すことができた。私は別段宣告をするわけでもなく、岐路に立つと歩を止めることなく涼の向かう方へと足を向けていた。先の話を聞き、とても途中で分かれるという選択肢へは通れなかった。
 冬至も過ぎて、少しは長くなろうとしているのだろうが、まだその成果を感じることは不可能であった日の傾きはすでに夕刻の空から急速な勢いで夜へと落ちようとしていた。なるべく長く彼女といることが良い選択かと漠然と判断していた私は、しかし私の家よりも低い街にあっては、こうも夜が早くに訪れることを思い知り、早々に家まで送らねばならぬと歩を速めた。
 なんとか日が沈むよりも早く涼の家にたどり着くことができ、彼女が玄関を開けて中に入るまで、私は律儀に見守った。
「ありがとうございました。おやすみなさい、先生」
 涼が頭を下げ、扉の向こうに消えてしまうまでを見届け、施錠される音を聞いた私は、少し安堵あんどした。涼の身に何が起きて、今日ほど取り乱すことになったのか、私にはまったくもってそのわけを伺い知ることはできない。そしてまた、震えていた肩に触れたあの時に、そうした方がいいと自身で思いながらも、それを口にすることを私は拒絶しなければならなかった。杞憂かもしれない。しかし涼にとって益になるわけでもないだろうと、私は思ったのだ。
 それでも自身の中に、決して腑に落ちようとしない何かがあった。後悔である。




2.


 翌日になり、寒さに耐えかねて歯の根が合わなくなりそうな私にちょっとしたニュースを運んできたのは、私と同じく早朝の軽い散歩を得意とする、私や涼が贔屓ひいきにしている喫茶店をふもとの街で営む野島だった。
 空が白み、青を取り戻しつつある中、日が昇る間際になり、私はようやく微かな安堵あんどを覚えていた。今朝の山はいずこより沈み舞い降りてきたのか、幾重にも引かれ閉ざされた白いカーテンに包まれたように、私の家が再び雪に閉ざされたかと錯覚するほど濃い朝霧あさぎりに覆われ、ひどく冷えて辺りは露草つゆくさとなって、しっとりと濡れていた。山中にあれば珍しいことではなく、雨の前触れに白の境界内に幽閉されることに私は慣れていたが、さすがに今日はいつものように山へ散歩に出掛ける気にはなれず、ふと思い立って山道に下り、麓の街へと続く街道に出てみると、意外にも天高く空は月を残し、星を飲み込んで青い朝を迎えようとしていた。今日に限っては風もなく、もたれ掛かるように山肌をなめる雲がちょうど私の家が建つ辺りにかかっていることを除けば、下界は昨日と変わらず輝かしい晴天であった。これで己の忌々いまいましいまでの思い付きに何の疑いもなく準じた行動の結果、街道脇で寒さに震えることになった身にも、日が昇り太陽の熱がもたらされれば少しは救われることだろう。買い物の一切を人任せにする愚か者は、こうした状況下にあり、如何なる文明の利器が遥か彼方よりの加護を受けて温かい缶コーヒーの存在を煌々こうこうと見せつけていたとしても、懐にその恩恵を賜るための小銭を忍ばせておく偶然にもありつけないもので、私はいくつもの自動販売機を歯を食いしばって越え、より公平な、暖かい朝を待っていたのである。
 ここまで来れば、というよりここまで来なくとも、私の家まで一本道である。待っていれば向こうからやってくることにようやく諦めもつき、私は街道沿い、やや古びて褐色を濃く日焼けしつつも、年月の重厚さを格式高く誇り伝えるような木造の家屋が整然と建ち並ぶ住宅街も目の前というところで、ついにふてくされてタバコに火をつけ立ち止まった。
 タバコの煙も凍てつく先で野島と私が目を合わせたのは、そんな時だった。一瞬、野島は物珍しさを臆面も隠さない顔で私に白い歯を見せ、近づいてきた。
「旦那様、珍しいですな。こんな時間に山を下りてらっしゃるとは。昨日は良い夜だったので?」
 誓って私はこの男から旦那呼ばわりされる関係にはなく、野島のたわむれである。また今に至っては昔のように路上に身を晒す醜態しゅうたいを繰り返しなじられていることもあり、野島のにやけた顔に紫煙越しの冷笑を返すことが私にはできた。これは涼の努力のたまものであろう。
「残念だが大した夜ではなかったな。私は素面しらふだよ」
「おや、それもまた珍しい。では、何かあったので?」
「いや―――」
 適当にあしらってしまおうとして、私は言葉を遮った。この野島の軽い調子ではあまり期待できないような気がしないでもなかった。が、他に聞ける相手が間近にあるわけでもなし、また自身の情報量の不足には、これ以上の時間、無為に過ごすのは良くないだろう。
 私は昨日の件について心当たりを尋ねようとしたが、それよりも先に野島は勝手に口を動かしていた。
「そういやぁ、旦那様。うちの近くにある平屋が空いたんですよ。この辺りにしちゃ中々広い方だし、庭もついてましてね。管理してる不動産屋の長島に聞いてみたら年数の割に結構安いってんで、旦那様、一つどうです?」
「なぜあんたが長島の回し者になってるんだ?」
「そりゃもう旦那様のためじゃありませんか。いい加減、不便な山暮らしなんか引き上げてこっちに来ちゃえばよろしいでしょう。下界、下界と旦那様は仰りますがね、こっちに来りゃ飯屋も飲み屋もアッチの店もいっぱいあるんですぜ? 旦那様、最近下りてきてないから、あたしが見つけた良い店も教えちゃいますよ。そりゃもう旦那様好みの綺麗なお嬢ちゃんがいる店があるんで。どうです、旦那様?」
 朝っぱらからおまえは何を色呆けているのかと、寒さに食指も動かない私は冷ややかにタバコの火を握りつぶしていた。そんな私に気付いてか、野島は観念したように本音を口にした。
「いやさ、旦那様。こんな寒空の下を毎日毎日、糺森ただもりのお嬢さんを山の中まで通わすのもかわいそうじゃありませんか。旦那様が山を下りれば彼女だって気軽に通えるし、旦那様だって楽じゃありませんか」
 まあ、そういうことを言いたいのだろうことは私も大凡おおよそ察しがついていた。野島は私を古くから知る数少ない人間の一人だった。そうであればこそ、山に引き籠もる私の事情を知っているし、またその手助けをする涼のことも心配しているのである。手を変え品を変え、野島は私に山を下りるよう誘い説得するのだ。とは言え、その誘いに私が応じた試しがあったはずもなく、今日とて私が返すのは曖昧あいまいなため息だけである。
「残念だが、今はそんなことを考える時ではないよ」
 いつも通りの言葉に、野島が食い下がることはなかった。深海で押し黙る岩のようにかたくなな私の心を前に、かつて幾度となく挑んでは敗れてきた諦観ていかんからか、最近はその意味もないと悟ったように見えた。
「ところで―――」
 私は新しいタバコに火をつけながら、ようやく自身の問いを出せる機会にありつけた。タバコの箱を野島にも差し出してみたが、彼は手を翳して静かに遮った。
「最近、この辺りで不審な男が出たという話を聞かなかったか?」
「旦那様、藪から棒にケーサツみたいなこと聞きますね」
 野島の軽い調子は変わらなかったが、私が妙な感覚を覚えて顔をあげると、彼の顔から表情の色が抜けているのが見えた。私に感づかれたことを察し、ごまかすように野島は白い歯を見せる笑みを貼り付けた。
「へへっ。バレちまいましたかね。えぇ、旦那様の言うとおり、実は一度変な野郎があたしの店の近くを彷徨うろついてたことがあったんでさ」
「それはいつのことだ?」
「かれこれひと月も前じゃなかったかと。あのウジ虫野郎、雨降りの中であたしの店の前に突っ立ってましてね。浮浪者がゴミ漁りに来たんじゃないかと思ったんですが、しばらくはあたしも店のことで作業してたんで無視してたんですよ。それで夕刻から日も落ちてお客がけてきた頃になり、ふと外を見たらまだ奴が同じところに立ってやがる。気味が悪かったし、店の前に幽霊みたいに立ってられたんじゃこっちも客に逃げられちまうんで、そいつに文句言ってやったんですよ。用がねぇなら、とっとと失せろってね。あ、もちろん人がいないのを見て言いましたよ。なのにあの野郎はあたしの言葉が聞こえないように、微動だにしない」
「どんな成りをしていた?」
「いえもう、あれはただの浮浪者でしょう。きったない身なりでしたよ。ただね、顔がね…」
 野島が苦虫を噛み潰した顔をし、腕を組んで身震いしてみせたのは、おそらく今更寒さに震えたからではなかったろう。
「顔?」
「えぇ、馬鹿なと笑わないでくださいよ、旦那様。あいつの顔は普通じゃなかったんです。まるで、いやそこらの病人でもあんなひでぇ顔にはなりゃしません。それくらい顔がぶくぶくに膨れて、しかも膿みでも溜め込んでるのか、妙にヌメるようなしわが寄ってるんですよ。そのくせ顔色は最悪で、血の気もなく真っ白。あたしも人の顔見ただけでぞっとしたのは初めてでしたね」
「よほど不健康な男だったのか」
「不健康、ねぇ…。いや、決して馬鹿にした訳じゃありませんよ旦那様。でもあたしから言わせりゃ、ありゃ死人の顔ですよ。それこそホントに顔中の穴から今にもうじが湧いて出てきそうな。おっかなかったし、気味が悪くて、格好悪い話ですがあたしは顔見ただけですぐに尻尾巻いて店の中に逃げちまいました。―――ああ、嫌だ嫌だ。思い出すだけでも恐ろしい。あんなのとは顔合わせちゃいけませんよ。地獄みたいな奴で」
 如何にも胸くそ悪いと言った表情を浮かべる野島の、自身の店の中ではもちろん、例え外でこうして私と冗談を交えて話す時でさえ滅多に吐くことのない嫌悪けんお侮蔑ぶべつを込めた言葉が、彼もまたその男にただならぬ感覚を覚えたことを私に強く印象付けた。
 野島は身を屈めて私に顔を近づけて尋ねた。
「でも旦那様、もしかしてあたしにそんなことを聞くってことは…」
「ああ、実は私の家に現れた。おそらくあんたが見た、そのウジ虫野郎って奴だろう」
 野島は目を向いて顔をしかめた。
「ええ!? あいつ旦那様のところにまで出たんですかい?」
「まったくご苦労なことにな。だが私は直接は見ていない。そいつを目撃したのはすず…糺森ただもりなんだ」
「うへぇ。お嬢さんが見ちまったんですかい。男のあたしでも気味悪くて逃げちまうほどだったのに、あんな若い娘さんじゃあ、ちょっと刺激が強かったのでは?」
「察しの通りだ。二階から遠めに見たというのに腰を抜かしていたよ」
 この、飄々ひょうひょうと立ち振る舞いながら、その実、なかなか人情に深く他人を放っておけないらしい性分の野島は、うんうん、とうなづいて、その時の涼の気持ちを深く感じ入り、冗談のように眉を下げ心配そうな表情を浮かべた。
「怖かったでしょうなぁ、お嬢さん。で、何かされたんで?」
「幸い家の門のところに立っていただけで中には入ってこなかったし、私が朝の散歩から帰ってきた頃にはいなくなっていたから、大丈夫だった」
「そりゃあ、まあ怖かったにしろ、とりあえず良かったでさぁね。それにしてもお嬢さん、一人の時に奴を見ちまったんですねぇ。おかわいそうに」
 そこで私は思い至り、泥沼の奥底からゆっくりと沸き上がってきた泡のような疑問を野島に尋ねようとした。なんのことはない、些末さまつな確認事項だった。おそらく、怪訝けげんと共に否定されるだろうことは、少なくとも私自身においては曖昧な立ち位置故もあり、野島に対して期待を込めていたのかもしれない。
 私が口を開こうとしたとき、不意を打つように野島が何かに気付いて通りに視線を送った。私もつられて、そちらの方に目をやると、貫禄かんろくを帯びた木材が持つ細やかで力強い木目模様が静謐せいひつな壁画を思わせる家屋の建ち並ぶ通りの先、すでに山へ続く坂道が始まっている中をローギアで回しながらいつものMTBに乗る涼の姿が目に映った。私たちが彼女の方へ振り向いたのとほぼ同じくして、涼も私たちを認め、およそ通りの先にいながらも私はその少し驚いた表情を見せたことに気が付いた。
「まあ、こういうことだ」
 ようやく寒さに震える身に、日の光はもとより、白靄しろもやの中を分けて山を下りるというある種の暴挙が報われた思いがして、私は呟いていた。
「はい?」
 野島が何を言っているのかと首を傾げたのを見、私は安堵の意を込めたため息をもらした。
「最初に聞いたろう? なぜこの時間に山を下りているのかと」
 そこまで言い、私は涼の方に手を振った。野島は小さく、ああ、とこぼした。


+ + +


 私たちは早々に野島と別れると街道を越え、私の家へと続く山道への道を昨日と同じように並んで登り始めた。
「びっくりしちゃいました。先生がこの時間に山を下りているなんて。あ、もしかして昨日はどこかでお酒を飲まれたんですか?」
 野島にも同じ疑問を投げかけられていたことを省みるに、私は私が思う以上に、というより必要とされている以上の信用を未だ以て得られていないということなのかもしれない。あれほど散々にののしられて学習と言うものとしなければ、それはいっそ喜劇にも勝る。にも関わらず、あたかもコツを得たかのように、単なる思い付きから出たであろう言葉に涼は私にとっては絶望的な確信すら手にしかねない目で今やこちらを見ており、私は山を下りたことを心底悔やみそうになった。
「待ってくれ。私は不信で無感動な人間だと口走ったかもしれないが、薄情であると言った覚えはない」
 あらざる誤解への弁解のつもりが、どういうわけか刻まれていく涼の眉間の皺に、私は拳を振り下ろされんとする幼子おさなごのようにひどく怯えた心境に陥れられ、自らの言葉にさらに被せて強調せざるを得なくなる。
「誓って言う。昨日はそんな気分ではなかった。この通り、私は素面なんだ」
 涼が白面のように表情を消して押し黙る。これ以上は絞っても何も出ないぞ、というまな板のこいにも似た感覚で私も黙った。願わくば、たまには私の言葉も信じて見てもらいたい。
 涼が視線を外し、手を口元に運ぶと笑みをこぼした。
「わかっていますよ。先生の二日酔いは飽きるほど見てきましたから。素面の時との違いくらい、私にだってわかります」
「からかってくれたな」
「その、昨日のことで、心配してい来てくれたんでしょう。ありがとうございます」
「元気そうで何よりだ」
 まあ、こうして人をからかう余裕があるのであれば、少なくとも昨日の私の思いは杞憂であったのだろう。涼の内心はまともであり、私にとってもまた彼女自身が変化し得るものではなかったということだ。

 日の出を待つ頃はまだ山肌を白いコートのように装っていた雲は、涼と共に分け入る時に至ってはその姿をどこかへ消し去っていた。今日は逆転して麓の街よりも少し遅かった明るい朝を迎え、山の草木や土は日の光にようやく目を覚まし、細く狭い山道を歩く私たちに露草の名残をきらめかせて見せていた。雪化粧の代わりのようなしもの降りた土を踏みしめ、私と涼は木々の合間を進み、やがてはその一部にも変えられるやもしれない、今はまだかろうじてその体を保つ私の家へと入った。
「先に朝食を用意しますね」
 それが当たり前のことだとばかりに、涼は日々の慣例から容易に離れ、台所に向かった。米櫃こめびつから白米が流れ打つ音を聞いた私はやがて家の中に漂い始めるであろう食事の香りに期待しながら、昨日彼女が洗っておいてくれた作務衣に着替え、作業場へ入るとオイルヒーターに火を入れた。オイルが加熱されるのを待つ間に轆轤ろくろの点検をし、土を削る彫刻刀を浸すための湯を沸かそうと薬缶に水を注いで火にかける。沸騰ふっとうを待つ間、私はふと棚の方にぼんやりと目を向けた。昨日、理由も明らかにはされないまま振るわれるだけだった暴力の痕跡こんせきが、まだそこには色濃く残されていた。棚のおよそ半分は今、辛うじて理不尽を逃れ身を寄せ合うようにして棚の上段に集められている。まるで十三階段を待つ囚人のようにうつむき押し黙る彼らの足下には、まだ乾ききっていない、柔らかく若い色をした器の子種が二つばかり置かれている。昨日、涼を送り届け自らの飯のアテを得て家路についた私が、ようやく指先に落ち着きと正気を取り戻して形にすることのできた器であった。
 もしもまだ、私の中に彼らと向き合うだけの精神が残されているのなら―――さいを投げるような思いに駆られ、私は立ち上がる。
 また土を取り、大上段に構える武士のように振りかぶって、息を一つ腑に落とす。臍下せいかに気を溜め満身の力を込めて作業台に叩きつけた。頑丈がんじょうであることだけを頼りに作られた無骨な台が悲鳴のようにきしみあげる音を立てる。丸にも近かった種土は台の上で円錐形えんすいけいに広がる。私はそれを引き剥がし、下になる面を変え、また力を込めて台に叩きつけた。二度、三度とそれを叩きつければ、土はいびつな型へと変化していく。なおも私は鉄槌の如く土を台に打ち据えることを繰り返す。いつしか、私の手にあるそれは目に見える不純な気泡を一つとして懐柔かいじゅうしない、粘り強く引き締まった土へと鍛えられていった。打ちのめされた土が硬くなるのを手のひらに感じ、また土が再び丸みを帯びかけるのを見、私は次の段階への導きを得る。土を置き、手を重ね台も打ち抜かんばかりに体重をかけて土塊つちくれを端から押し伸ばした。十分な水分を含み鍛え上げられた土は強引に押されてもひび割れることなく私の重みすべてを受け止め、身を伸ばす。最初は大きく、徐々に細やかに手の置き場所を変えながら、私は小刻みな呼吸と共に土を捏ねていった。少しずつ、少しずつ、削るように土に身を打ち下ろし丹念に伸ばしていくうち、土塊だったものが外への滑らかな湾曲わんきょくを得て大皿の輪郭りんかくを得ていく。しかしそれはまだ私の求めた姿とは程遠く、長い道のりを思わせた。もっと強く、より深く、無心になって私は土への要求だけを手のひらに込める―――

 やがて一つの形を見いだせる頃になり、私はふと額の汗が頬を伝い落ちそうになるのを感じて、ようやく手を止めた。種土の完成はまだ五分にも満たなかったが、ここまではうまくいったように思えた。私は汗を拭くために手ぬぐいの在処ありかを探そうとした。
「先生」
 呼ばれ、振り返った先に白く洗い上げられた手ぬぐいが差し出されていた。涼だった。いつの間に作業場に入っていたのだろうか。
「使ってください」
「ああ…」
 私は素直に手ぬぐいを受け取ると、汗を拭った。ヒーターなど付けるべきではなかった。こう、熱くなる時に火が近くにあると後で後悔することになる。
「涼。いつからここに?」
「ずいぶん前ですよ」
 そこまで言われ、私の汗を拭く手が止まった。
「すまない。朝食だったな」
「はい。でも、なんだか声をかけられなくて。先生、すごく集中されていたから」
「気にすることはなかったんだ。せっかく作ってくれたのに、冷めてしまった。それにきみだって朝は何も食べてなかったんだろう」
 私は自身を情けなく思いながら、申し訳なく言った。涼は笑顔を返した。
「私は大丈夫ですよ。それより、先生の調子が戻ったみたいで安心しました」
 涼に言われ、私はまた作りかけで手を止めた種土を見た。確かに昨日のことを思えば、自身にとっても、また涼から見ても私がようやく順調を取り戻していると思えた。私は満足し、また安堵して息をついた。

「昨日は遅くに友達が来てくれて、とても楽しかったんですよ」
 時の頃はすでに昼近くになっていた。気まぐれな綿曇が山脈にたわむれるようにして降り、遠い情景をかすませるのを眺めながらタバコを吸い、ふと私が昨日のことについて問うと涼はすっかり冷めてしまった朝食を温めながらにこやかにそう言って答えた。
「電話があって、久しぶりに話したら盛り上がっちゃって、吉志きしの三代子さんが六条の方から来てくれたんです。一緒に八幡やわたの方からたまたま来ていた菅原の辰徳さんたちも誘って。ちょっとしたパーティになって、遅くまで話し込んじゃいました」
「なんだ。ということはきみ、あんまり寝てないんじゃないか?」
 涼は肩をすぼめ、ぺろっと舌を見せて悪戯いたずらっぽく笑った。まったく、人にはまた外で酒を飲んだのか、などという疑いの目を向けておきながら…と私は腕を組んでみせた。
「みんなと会うのは久しぶりだったんです。だからつい飲んじゃいました」
 酒に関しては私が何を言えたわけもない。もっともこれまでの涼に信用を問われるような、酒に乱れるようなことがあったわけではないし、たとえそのような席があったとして、若い女性が一人暮らしの家に易々と男に敷居を跨がせるものではない、などという親のような助言を口にすることはすまいと、私は悟られないように舌の根を奥にしてこらえるのを感じた。涼もその程度の分別がない歳でもあるまい。
 私は多少、取っつきにくくあまり性が合わないものを感じるのだが、吉志の三代子と涼は気心の知れた仲であり、またあの赤髪が紹介したという菅原の辰徳は大変な努力家であるらしかった。食事の準備を整え、席に付いた後も涼は彼らと話したことなどをとても楽しそうに私に語ってみせた。菅原について私はあまり多くを知らずにいたが、辰徳という青年は学生の身で働きながら学資金を自ら捻出し大学を卒業した苦学生だったらしい。苦労のために大学で会計学を学ぶも、その資格を得るまでに卒後まで勉学に励み、また士となってからも職にありつくことができなかったり、やっと仕事を得る場所に至っても苦労は絶えなかったという。そうした順風も知らぬ道も固く念ずるような思い一つに真面目な性分で堂として歩み越え、先日、念願叶って独立し、自らの事務所を立ち上げるに至ったと、涼はやや熱っぽく語った。
「独立したら独立したで、また苦労してるよ、なんて本人は言ってたんですけど、なんだか自信に満ちている感じでした」
 食事中、というより常日頃多くを語ることを少し前から意図的に避けるようになっていた私に代わり、この家で口を開くのは涼であった。が、それを置いても、今日の彼女はとても楽しげに語り、そのにこやかにさえずる姿を私は笑みを返して見つめていた。

 食事を終え、窓際に立った私はタバコをふかしながらまた外を眺めていた。今日は正午を過ぎて少し雲が広がろうとしている。その下で、我が家の庭はいっそう寂しく見えた。冬の草木に混じり、花がないわけではない。が、花があっても眠るような土の上では、どんないろどりも色褪せて見えるもので、春夏の頃を思えば如何ともしがたく庭の様子は大人しく感じるより他になかった。
「お茶が入りましたよ」
 と、涼が食後のハーブティーを持ってきてくれた。私はタバコを消し、爽やかな香りを立てるカップを受け取った。涼が自ら選んでブレンドするハーブティーは、彼女の作る料理と同じように私にとっては大きな楽しみであった。少しの間、私たちは茶葉の香りに包まれ、静かに庭の風景を共に見ていた。
「暖かくなったら、また花を植えますね」
「今度はどんな花にするんだい?」
「金鳳花とか、黄水仙もいいかなぁ」
 といっても私に花の名前がわかり、その名から花の姿を想像する技を持ち得るはずもなかった。
「ま、きみの好きな花を選ぶと良い。植えるときは手伝うよ」
「お花を眺めながら、またバルコニーでお茶を飲みたいですね」
 別段、というより断じてこのようなことを感じるのは、今朝の冷気の直中で頭も凍り付きそうな時に、あの野島がへらへらと軽い調子でのたまったことが真言のように私の中で未だに残響していたからではない。ただ、これまで私たちはこんな風にして二人で季節を送ってきたのだ。庭の草花や四季の折々で多彩に変わる涼のハーブティー、それを注ぐ、あまり似つかわしくはない私の作った茶器、山に渡来する鳥のさえずり…そうしたものを間に挟み、いつも私と涼は向かい合いに言葉を交わし、共に何かをして、ずっと一緒にやってきた。私は涼がまだ幼く、ご両親の陰に隠れながらこちらを伺っていた時から、芯を持って立つ一人の女性になるまでを見てきた。雨の記憶の果てに流れ着いた私を彼女が知るように、私もまた涼のこれまでを知っている。その身の上に、涼を知る者の多くは光あれと願い、私もまたその一人であった。私は祈っていた。私のような者にはもはや如何いかにして想像しうるものではなくなってしまったが、せめて涼だけには約束されたものであってほしいと。彼女が想う限りの、幸せな未来、あるいはその自由であることを。だが、それもまた一つ、私の悪癖あくへきでもある杞憂きゆうなのだろう。私などがこうべを垂れる先もないまま願うまでもなく、涼はもう自らの手で、または足でその向かう先を示すことも歩んでいくこともできるはずだった。複雑な事態の中で丁寧にかじを切り、乗り越えていくことだろう。私たちの間で道徳や人のあるべき道について語り合われたことはない。私に至っては彼の教典にはわずかにも興味がなく、またその聖書を開いたとて教え諭されるよりも先に外道であることを言い渡されるだろう。つまりおよそ私に、求められるであろう道徳などというものもないからかもしれなかったが、時折涼がやってみせるような、十字を切るときに己に語りかけ、自身にあるものの全てに思い馳せる心はわかっているつもりだった。そうすることで自らをかんがみることもできる彼女に堕落だらくや言い訳がましい怠惰たいだを見出すべくもない。夜のパーティや集団デートのようなことをやったと、好きなようにやらせたとしても、涼はきっと私よりも遥かにうまくやっていけるだろう。そしていつか、彼女にふさわしい誰かが現れて涼を迎えにやってくるだろうことを、航路の果てにたどり着くべき教会でのハッピーエンドを私は望んでいた。もはや結婚など無意味なのだと自身には強く諭す私は孤独に生きるだろう。しかし、今に至って私は心の奥底から、カトリック教徒であった玲子の「ミサを聞いてひざまずく時に、私は私の感じるもの全てを清らかに感じるわ。それが私にきっと良いものをもたらしてくれる―――そういうことを、きっと私は告白せずにいられないのでしょうね」と言った言葉を思い出してならなかった。なぜ私はその言葉を理解するに至ったのだろう。何一つ明確にはできないが、私にはやがて救いにも思えた。だが今の私は涼のことを考えなければならない。話は大きく異なっていく。如何なる巡り合わせか、涼もまた敬虔けいけんなカトリック教徒であった。それがために、あらゆる未来が運命任せなのだということを私は感じ、だからこそ、もう一つの思いをかけて祈っていた。運命が私のような男からは涼を遠ざけ、吉志のような友達、菅原のような相手へと導いてはくれないかと。今はまだ遠く、いずれ訪れる春を思い話す涼の笑顔に、私は幸あれと心から静謐せいひつの中に願っていた。




3.


 夜に至り、私が倒れ込むように床に就いたのは日付も変わった頃だったろうか。私の神経は昼を過ぎて恐ろしく冴え渡り、涼が帰ってからも風に踊る火の如く意識が張り詰め、怒濤どとうのように私は土と向き合い続けた。意志の濁流だくりゅうつつみで御し、大海へと導くために手のひらに、指先にその全てを注いだ。まるで荘厳そうごんなオーケストラの重奏のように高揚し、身を沸き立たせ、歴代の王たちが思い描くままに民衆を仰いで国を建てていくのと同じ感覚で、私は思いのままに土に触れ、その形を具現のものにしていくことができた。一気に作業場の棚に新参者が増えていった。私は内心とても満足し、まだ高ぶっていたが、しかしもう体は疲弊ひへいし悲鳴を上げていた。研ぎ澄まされた感覚に切りつけられ、消耗しきっていた。自身の歳のことなど考えたくもないことではあったが、鉛と化す体にこれ以上の融通を期待することは出来ず、私はたしなめるようにスコッチを煽り、ベッドに身を投げた。昼間、日のあるうちに涼が功績を残した洗い立てのシーツが、横たえた体に染み渡るような眠りを与えてくれる―――はずだった。
 なぜだろう。アドレナリンに漬け込まれた神経がありもし得ない妄想をかき立てていた。夜が深まるのを感じ、曖昧あいまいに意識を混濁させようとする私はいつしかベッドの上に身を置いたはずなのに、その体がどうしたことか、箱の中に閉じ込められるのを知った。身の丈いっぱいに四方を仕切る木の板に阻まれ、腕も足も広げることが叶わなかった。ぼんやりと目を開けたとき、私は自身が透明なガラスの覆いが備えられた箱の中に入れられていることに気付き、不規則な振動が私と箱とを揺らし、どこかへと運ばれているようだった。私の目の前を、というよりは上に掲げられていたものであろう、街頭の光がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。阿弥陀あみだのような市街の道を駆けゆく風の音が聞こえ、寂しげに鳴いた鳥たちの群を成して飛びゆく音も、雨だろうか、おそらくはやがて雪に移り変わっていくことを感じさせるみぞれ混じりの雨粒が、サスペンションを軋ませ車輪を回す鋼鉄の箱の天蓋を打つ音までもが響いてくる。火を焚きつけられたように私は力づくで箱を破ろうともがいた。しかし頑丈に打ち付けられた箱の壁はびくともせず、またそれを叩き蹴りつけた音は一切外へは出て行かなかったように思えた。声を出すこともできない。狭いガラスの覆いから、車外の景色がわずかに見える。私の知る街とは思えなかった。夜だったのかもしれない。景色に見える家屋の全てがコールタールでも塗りたくられたように黒に、否、黒よりも深く重く暗い色に染まっていた。あらゆるコントラストを押し潰された家々の中で、かすかに中の明かりを思わせる光を私は目撃した。その家の前に誰かが立っている。浮かび上がるような白いドレスだった。曇らせた表情、哀しい目で、その人がひつぎの中の私を見下ろしている。私は必死に叫んだ。叫んだつもりだった。しかし、世界は再び闇の中に没し、何も見えなくなる。恐ろしさに耐えかねて私は目をつむった。何も、あらゆるものを見たくなかった。見てはいけなかった。やがて車輪の音が途絶え、揺れが止まった。私はただひたすらに目を閉じて息を殺した。次に聞こえてきたのは、引き摺るような、人の足音とは思えないものがゆっくりと私を閉じ込める箱に近づき、うろうろと彷徨さまようように周りを徘徊する音だった。巨大なナメクジか、塊になってうごめく蛆虫が近くにいるような、吐き気を催すほど不快な足音とえた匂い。耐え難かった。まるで眼球をほじくり出されるような感触に、私は強制的に目をこじ開けられるのを感じた。もはや自らの意志からも離れたその眼が見たもの。それは青白く、膨れた皺を幾重にも刻みつけ、生気を一切感じさせない双眸そうぼうで私に見入る、狂った能面のような者―――

 奥歯が砕けるほど食いしばり、全身を鋼のように硬直させシーツをきつく握りしめて、何かを叫びかけた私が意識を取り戻したとき、そこはひつぎの中ではなく、私の寝室だった。天井の木目が緊張した様子で私を見下ろし、朝の冷気が淀んでいる。いつから呼吸を遮っていたのか、私は深海から釣り上げられたようにしぼみきった胸の中に思い切り息を吸い込んだ。窒息寸前を物語るかの如く荒い息づかいが音を忘れた部屋に染み込んでいく。凍り付いた我が身から薄氷を砕き剥がすように、生まれたての子馬よりもぎこちない動作でやっと体を起こす。全身に冷や水でもぶっかけられたかのようだった。汗の呼び水に冷酷な空気が切りつけてくるが、寒さを感じなかった。外がかすかに白んでいるのを見る。およそ普段、私が目を覚ます時間に変わりはなかった。
 だが夢の中の感触が、途切れることさえなくまだ私の中に渦巻いている。不穏ふおんの気配がすぐ近くにあるという確信すらある。棺の、私の周りを彷徨うろついていた、あらざる者の気配だ。わずかに鼻につく匂いさえ残されているような気がする。地獄へ赴くような思いで私はゆっくりと、物音の一切を立てぬよう用心しながら寝室の扉へと向かった。意を決して戸を開き、廊下に出る。朝の明るさが差し込む廊下はただ静まりかえり、押し黙っているように思えた。慎重に、恐ろしいものを目覚めさせないような足取りでフローリングの上を進み、私はリビングに入った。
 信じがたいものを、そこに私は見た。
 リビングにあったもの全てがひっくり返され、収められていたもの全てが床にぶちまけられていたのだ。

「先生、先生!」
 金切り声をあげて飛び込んできたのは涼だった。彼女の声がしたとき、私は作業場にいて、ぎょっとした悲鳴を聞きはしたものの、そこに駆けつける気力も奪われていた。家中を探し回った挙げ句にやっと涼が私の姿を見つけ、背中に飛びついてきても、私はよろめいただけで何の反応も起こせはしなかった。
「先生、何があったんですか? あんな、家が、めちゃくちゃに…」
「全部ひっくり返していったようだな」
 魂ごと抜き取られたように呆然と家の中を回った限り、私の家の部屋という部屋のあらゆるものが倒され、中身を引っ掻き回されていた。茶碗や花瓶などの割れ物は全て割られ、庭に至っては花が踏みにじられていた。そして私の最後の希望さえも…。
 私が絶望と共に見つめる先に涼も視線を送り、息を呑んだ。作業場の棚にあった作りかけの器たちが皆、床に叩きつけられ、潰されていた。ようやく乾きかけていたものは割れて飛び散り、まだ若かった土は泥のように広がっている。狂気すら感じる、私の癇癪かんしゃくよりも遥かに暴力的な悪意に、彼らは残らず陵辱され尽くしていた。屈み込んで潰れた遺骸いがいの一つを拾い上げ、私は両の手で握った。
「これで、みんな、なくなってしまった」
 かすれるような、弱々しい声が私の口から漏れ出る。それ以上は何も言えなかった。涼が私の背にすがりつき、きつく抱きしめ、すすり泣いた。


+ + +


 後の警察が私の家に立ち入り、中を検証したところでは、およそ望むべくもなかろう金目のものには、床にぶちまけながらも一切手を付けることなく、ひたすら執念深く徹底した態度で家財の一切をひっくり返していったらしいことが告げられた。もしかしたら、奴は何かを私の家の中に求め探していたのではないか、と。涼は必死に一昨日の早朝に目撃した男の話をし、私はいつになく深い眠りのためか、気配を感じたのみで結局その姿を直に見ることがなかったと言うしかなかった。およそ情けない話であろうが、彼らもまたいくつかの報告が寄せられていたことこそ知っていても、涼が語るような男を実際に見た者はなく、断定するには至らなかった。

「先生」
 呼ばれ、幾度目かに私はやっと意識を取り戻した。
「お茶、冷めちゃいましたね。淹れなおしましょうか?」
 私はカップを握りしめたまま、我を失っていたようだった。
「あ、ああ…すまない」
 申し訳なくカップを渡すと、涼は何も言わず新しい茶葉を用意して湯を沸かし始めた。ハーブティーが淹れられるのを待つ間に、私はタバコに火を付けて窓辺に立った。庭までもが悪意に晒された傷跡を如実にょじつに残している。
冬牡丹ふゆぼたんが…」
「え?」
 私がぽつりと呟いたのに、敏感に涼が反応した。
「冬牡丹が折られている。山茶花さざんかも」
 それは冬支度の頃から涼が手を吐息で温めながら世話をしてやっと花をつけるに至った、去年から今年にかけてようやく庭に咲いた冬の彩りだった。長年放っておいた私の庭の土は、決して花が咲くのに適したものではありえなかった。それを涼は丹念に、根気強く掘り起こし肥料を蒔いて少しずつ開墾していた。初めはほとんど一切の花や草木が根付かなかった。少しずつ、少しずつ、やがて私をも巻き込んで、一昨年の冬に一度畑仕事さながらに二人で鍬を持って土を洗いざらい掘り起こし、花を植えるために煉瓦れんがや石を並べて花壇を設けた。そうしてようやく、さらに涼の地道で熱心な世話の甲斐もあり、雑草ばかりで荒れ果てていた私の家に花が彩りを添えるようになったのだった。その苦心した花壇さえも踏みつけられ、花が土にまみれ潰されているのを私は見てしまった。
 涼が窓辺にやってきて、私と同じように庭を見た。私たちは言葉もなく、ただ残された傷跡を眺めるしかなかった。しばらくして、私の隣で涼がまた鼻をすすった。
「すまなかった。私がもっと用心していれば」
「いえ、いいんです。ただ、悔しくて…」
 目に涙を溜め、涼は続けた。
「先生があんなに頑張って、大切にしていた器をみんな壊されたのが、悔しいです。あんなの、ひどすぎる…」
 そう言って唇を噛みしめる涼に、私は何も言えなかった。心に、大きな風穴が空いてしまったように、私の中の何かがそこからすり抜けていってしまうようだった。俯くしかなかった。
「不謹慎でごめんなさい」
 唐突に涼が言った。わけもわからず、私は顔を上げた。
「でも、私はあの時、安心したんです。家に入って、中が荒らされているのを見たときにすごく怖かったんです。先生がどこにもいなくて、もしかして何かあったんじゃないかって思って、パニックになりそうで」
 涙が一筋、その白い頬を伝う。涼は私を見上げ、震える手で袖を掴んだ。
「見つけたとき、先生に何もなくてよかったって思ったんです。棚の器が割られているのを見ても、でも、怪我をしたわけじゃないって、器なんかどうでもいいって」
 震える声を、私は自ら遮っていた。もうこれ以上聞いていられなかった。何も言ってほしくなかった。しかし、得てして開かれてしまった胸の扉を再び閉ざす術を私が知る由もなく、ただ目の前で涼の小さな体が壊れてしまいそうで、愚かしいことだが、私は自身が自覚するよりも先に彼女を抱きしめていた。
「いいんだ、涼。もういいんだ」
 言ってしまいたかった。何もかもをぶちまけて、ここで話を終わらせてしまうべきだった。私は大丈夫だと嘘でもいてしまうこともできる。器などいくらでも作り直せるのだと強がってしまえばいい。蛆虫うじむしになど好きなものをくれてやるとのたまっても構わない。その、いくらでも思いつく限りの言葉で、涼を突き放してしまうことは容易だった。しかし私は何も言えなかった。ただ、如何なる勇気でもってそれを成し遂げることは出来うるはずもなかった、涼を抱きしめて、私は自らに封印した思いを抑えることができなくなっていたのだった。そして私の行為が、涼の最後の殻を破らせた音を聞いた。
「ごめんなさい。でも、私は先生のことが心配なんです―――」


+ + +


 夜が明ける。あたかも宿命のように。
 夜闇と朝の青を分かつ境界の下、まるで訝しむように切れ切れに雲が見下ろす中を、私はまた日常、そうであったように歩き慣れた山の獣道を一人、ある場所へ向かい進んでいた。
 昨日、私たちはその後で、残された暴力の痕跡に対し、無言で跡形もなかったかのようにすべく、黙々と片付けに追われた。私の家が大きいと思ったことは一度もないはずだったが、中の家具に至るまでをひっくり返された惨状さんじょうに、作業は必要以上に難航した。とても二人だけで短時間に済ませることは不可能だった。が、他から応援を求める気にはなれず、また涼はそれを快くは思っていなかったのかもしれない。平時に倍する活発な動きで彼女は次々に家財道具をまとめ、私と共に自らより大きな家具を立て直し、元あった場所へと戻していった。私も負けじといつになく動き回ってみせたものの、しかし夜半に至っても片付けられたのは全体のおよそ半分といったところだろう。今日もまた、ほんの一月も前、年の暮れにやった大掃除よりも大がかりな片付けを私たちは強要されている。結局夜になっても帰れず、またさすがに疲れてしまったのだろう。いま、私のベッドには涼が身を横たえ、束の間であろう深い眠りに落ちている。私はあれから一度も眠っていない。それを拒否していた。
 私はずっと思案していた。
 家の中に産み落とされた混沌を整理しながらも、私の心の中は常に火をあてられたように焦燥しょうそうし、また戸惑っていた。あるいは浅はかであったかもしれない。涼に教えと導きを与えてきたその主が仰せられるような、善良というものが私には欠落している。良心すら朧気な私が、それに気付きながらも開かれないことを願ってきたものはもはや白日に晒されてしまった。だが、私は私自身を、また涼をあざむくような真似はこれ以上できないことをすでに感じ取っていた。私の中で、もう涼は切り離すことはできない存在になっていたのだ。ある時を境に私はすべてを、あらゆるものを拒絶して在ることだけを望んできた。これから先において、自らの心の中に住まうものなど存在しないと。あの記憶の果て、私は誰も愛せず、また誰からも愛されざる者になりたかった。私にそれを決意させた、土と向かい合い、器に己の真意のすべてを注ぐことを除いて、あの日に至るまで燃え続けていた純粋な情熱は奥深く、今は万木ゆるぎの森に埋められている。それでいて、まことに馬鹿げたことではあるが、心のある場所に誰かが敷居を跨ぎ、入ってくることを待ち望んでいたのだろう。その誰かとは、言わば希望であった。希望がどこからか入り込み、私に語りかけてきてくれるのを待っていたのである。待ち焦がれた声は叫んだのだ―――「否!」それは私の中に、永久に埋もれてしまったかに思われた心を、その再生を叫ぶ声だった。教会の告げる鐘の音のように、それは私に響きわたり、福音をもたらすのだろうか。もはや私に、かつて高野川のほとりを私と歩き笑みを見せていた玲子の面影は、その声はもうなにも語りかけてきてくれることはないのだろうか。それをも希望は叫ぶのだ―――「否!」。
 夢のままであって欲しかった。私は涼の幸せを願っていると言った。それは今なお変わってはいない。未来への意志ある者たちに彼女が導かれ、私のような泥を這いずる者からは遠ざけられてしまえばいいと。涼にはそうした未来があるべきなのだ。行く末に立つ教会で、ヴァージンロードの先、あるいはまだ見ぬタキシードに身を包む男と、自らと共にその名を刻み彫金されたプラチナの指輪が彼女を待ち、気の置けない友人たちに祝福され、花とハーブの香りの中で駆け回る子供たちへの笑顔に満ち溢れ、築いていく温かな家庭…今の涼にはそうした前途を見通すことが出来る。きっと私とでは思い描くことも出来ない未来だ。それをわかっていながら、しかし涼は私への思いを打ち明けたのだ。東西を分け、強固で高かった彼の壁を思わせた扉を開き、その狭い隙間から流れ打つ心を絞り出すように言葉に乗せた涼。彼女を抱きながら、私は菅原の辰徳のような男を愛するべきだと諭したが、流れをき止めることはかなわなかった。どのみち受け入れるより他にないのだろうか。熱におだてられた時期を過ぎ、もしかしたら涼はすべてに嫌気が差すかもしれないと私は思った。私自身がそれを思ったとしても、私はきっと彼女に知的な好意を寄せることも出来るだろう。しかし、私には不釣り合いな妻が、彼女にはふさわしくない夫が、一時は共にあることを願ったとしても、やがて夢の時を過ぎればもはや同じようにはやっていけなくなる。その時、私と涼は、二人とも不幸になってしまうだろう。だからこそ、私は心を閉ざし夢のままであろうとしていた。
 私はなお、思案し続けている。
 だが、もはや途絶えたものと思われていた火は凱旋がいせんし、重く、くさびのように穿うがたれた石の柱は明るく照らされている。プラトニックな関係であるとのたまえば虚しく離れ、あるいは言葉や誓い、交わりですら機械的にこなす人たちのようにはなれない。また涼を前にそのような態度であることを、私は自身に許しはしないだろう。例えいずれ涼の目が覚め、何かに違和感を感じるときが来たとしても、その時はその時であり、なるようになる。いま彼女が私の中に足を踏み入れようとするのなら、私は私の心で以てそれに応えよう。涙と共に自らの心を開き見せてくれたように、私もまた自身の思い、願いのすべてを涼に明かし、託そう―――
 薄暗い森が途絶え、徐々に視界が明るくなっていく。友のように思って久しく、慣れ親しんだ山の頂上にほど近い場所。木々が途絶え青い空が広がるその下に、打ち立てられた九本の石の柱がある形でもって並び、私に相対している。雨の記憶の果て、雪深く大いなる正午を思わせたあの時に灯した私の心は、今はここに埋められている。日が昇り早朝の色が薄れゆく中、じきに涼は私のベッドで目覚め、階下へと降りる。まだ片付けきらない廊下を越え、リビングに入ったとき、彼女はテーブルの上に置かれたメモを見て私の中の重大な友情を知ることだろう。そこには「今夜十一時。夜空に星があったら出掛けよう」と記されている。


+ + +


 航路は開かれた。昼を過ぎた頃に現れ、私を焦燥させた薄雲たちは夜が訪れると共にどこかへと去っていった。
 私と涼はなお家の片付けに追われていたが、およその家具を立て直すことこそなんとか順調ではあったものの、その中身を整理して元あった場所へと戻していく作業にひどく手間取っていた。どういうわけだか、そこに収められていたものを元に戻すだけだというのに、引き出しの中はあふれかえり、同じように収まらないのだ。それ以前に破裂寸前のようになるまで押し込めていたわけではないのに。そんな片付けを私が、なによりも涼がやっているわけはない。にもかかわらず、具合良く整理することができなかった。私の家がこんなにも容量の狭いものだったのか、あるいはこんなにも雑多な物が増えていたのかといぶかしむほどだった。そこに、さらに部屋の隅々に隠れ潜んでいたほこりなどが表舞台に躍り出てきたこともあり、彼らを退去させる手間も手伝って、一部屋にかかる労力と時間は膨張を続けるばかりであった。昨夜までに半分程度は片付けたものとしていたのは、ペテンの如き楽観であったらしい。空の青がダークブルーへとコントラストを落としていく中、拭き掃除と小物どもの整理整頓に脳髄をねじ切られそうになっていた私は、夜闇の下で朧気な星明かりが灯っているのを見、無様にも救われた気分を味わうことになった。それでも涼は実に熱心に働いていた。部屋の扉一つを開けては火を注がれたように果敢かかんに挑んでいき、瓦礫の山を思わせる惨状に切り込んでいった。あっという間に混在する小物の類をそれぞれの収納にあった場所へと仕分け、私に的確な指示を与えて家具などは所定の場所へと戻し、物が退けられ顔を見せた床を磨いていった。その鮮やかでてきぱきとした動きを前に、私など、どれほどの足しになったであろうか。一人であったらすべてを片付けるためには家に火を放つことを思いつきかねない事態に、ただ途方に暮れるしかなかっただろう。空がすっかり夜に落ちる頃になり、不必要な物は捨てて整理するしかないと涼は意を決して私に宣告したが、むしろよくそこまで粘り強く頑張ってくれたものだと思う。私はもはや異を唱えるようなことはせず、彼女の提案を受け入れた。が、そこまで至るのにすでに一日を使い果たしてしまっていた。私たちは残る作業を明日行うことに決めて、夕食を二人で取った。
「すまないな。今日も泊まってもらうことになりそうだ」
 すでに夜も半ばになろうという頃になってしまっていて、とても下界の街へとおりるために山を歩くことが出来ない時間に、私は涼に大変申し訳ない思いで、そう言った。涼はきょとんとして応えた。
「私は大丈夫ですよ。それに、今夜はどこか連れて行ってくれるんでしょう?」
 その言葉に私はきつねに摘まれた気分になった。なんだ、覚えていたのか、と。今朝、私が家に戻ったとき、テーブルの上に置いていったメモはなくなっていたが、そこに書かれていたことについて涼は私に何も問うことはしなかったからだった。朝食も早々に片付けと掃除を始める彼女に、もしやゴミか何かと間違われて捨てられてしまい、彼女はその内容を知らないのではないかと思ったのである。その後も涼の熱心な様子に聞く頃合いも見出せず、私は一人勝手に今夜の行動は家の中が落ち着いてから改めて打ち明けるべきか、などと考えていたのだ。私がそのように話すと、
「だって、せっかくお出かけするのにやることが残っていたら気分が乗らないでしょう。だから頑張って今日中に終わらせてしまいたかったんです」
 と、涼は返した。なるほど、あの十二気筒エンジンさながらの高回転ぶりは、そういうことだったのか。残念ながら明日に回す作業が出てきてしまったが、それはそれで明日やれば良いだけのこと。夕飯に使った食器を洗う涼はすでにその気になっていて、鼻歌でも聞こえてきそうなほど子供のようにわくわくとしているのが見て取れた。果たして、彼女の期待に応え得るほど楽しいことがあの場所にあるだろうか。一抹いちまつの不安を感じはしたが、私は洗い物が終わるまでにと急いで支度を始めた。

 私の家が身を置く山はそれなりの高さはあるものの、決して大きな山であるわけではない。ただ夜も半ばに差し掛かろうという時刻もあり、涼には特に温かい格好をするようにと伝えて、私たちは家を出た。本格的な登山用の装備が必要というわけではなかったが、この真冬の時期、あの場所は風も強く冷える。基本的なものを除いて私が欲した荷物はランタンと地図、方位磁石と納戸から引っ張り出した手製の瓶とスピリットだったが、涼のリクエストでさらにペットボトルに分けた純水と小さなパン、五徳を備えたガスバーナーがザックの中に追加された。向こうで温かい物を飲もうと提案されたためだった。
「山の上に星の見える場所があるんですか?」
「ああ、この時期は空気も澄んでいて、とても綺麗なんだ」
 火を灯したランタンを持って私が先導し、涼は暗い森を興味深そうにキョロキョロと見渡しながら後をついてきていた。
「なんだか不思議な感じ。夜の森なんて歩いたのは初めてです」
「足元には気をつけて。木の根が張り出しているところがあるから―――」
 と、私が振り返ろうとしたところで、言った側から短い悲鳴をあげて涼がつまづいた。案の定、獣道の脇から張り出す木の根に足を取られてしまったらしい。前のめりに倒れそうになるのを私はランタンを持つ手とは逆側の手を差しだし、半身で涼の体を支える柱になった。
「ご、ごめんなさい」
 はっとして涼が身を起こす。私の家に通って三年あまり、ずっと下界の舗装された街で暮らしていた彼女もいい加減、山道にも慣れているはずだったが、足元も見通せない夜とあってはさすがに勝手が異なるのだろう。私は万一はぐれてしまったときのことを考えて、懐中電灯ではなく周りに明かりが広がるランタンにしたつもりだった。が、そもそも涼は私を頼りに歩いているわけで、そうしたことを考えるくらいならより安全な手段を講ずるべきなのだった。
「怪我はないかい?」
「はい。大丈夫です」
「もう少し歩くけれど、森を抜ければ歩きやすくなる」
 そう言って私は、可能な限りぎこちなくならないように涼の手を取った。白くて柔らかい手の指先がひどく冷えているのが伝わってくる。どこぞの青二才でもあるまいに、やや気恥ずかしく、涼の反応を待たずして私はランタンの光の射す方へと向き直り、歩を進めた。気も利かず、そこから私たちは互いの手を握ったまま、しばらく無言のまま夜の山道を歩くことに集中していた。
 上空の風を遮り、眠りに就く森の中はひどく静かだった。押しやられた闇の先で葉裏の住人たちがひそひそ話をしながら、ランタンの明かりを嫌い身を寄せ合って影の中に逃げていく。闇色にかすかな穴を穿つ火の輪の中を歩き続けて四半刻もしたころだったろうか、森の暗褐色の中にわずかにコントラストをあげた色をようやく私は見通した。森が終わり、その出口となった場所に差す星明かりの色だった。
 木々の合間を抜け、夜の視界が開けるのを見たとき、私の背後で涼が小さく感嘆の吐息を漏らした。覆い被さるようにさえ見えていた暗い森のヴェールが取り払われると、夜空が私たちを出迎えてくれたのだ。昼間、雨をもたらすのではないかと私を心配させた暗鬱あんうつな雲は気配さえ残さず空の遥か彼方へと姿を消し、煙るガスは眼下の麓へと風に押し込められているのがうかがえる。遮る物は一様に退けられ、今夜は月もなく、想像しうるよりも多くの星々が宝玉を敷き詰めたドームの天蓋てんがいのように煌めきながら私と涼を見下ろしている。街灯も少ない閑静かんせいな地に住む涼も、これほど広く、また深い奥行きを感じさせる夜の星たちの並びを見たことはないだろう。山頂のこごえた空気やなだらかに流れゆく風がそう思わせるのか、数多の輝きの、手も届かんばかりの光に歓迎され、瞳の中に彼らを映し出して涼は夜空を見上げていた。私はそんな彼女の手を引き、ついに目的の場所にたどり着いた。
「ここは…?」
 私が手を離したことに気が付いて視線を戻した涼が見たのは、夜闇に溶け込むような漆黒しっこくの石柱が九本、V字を描いて立ち並ぶ光景だった。まるで墓標のようにそびえるモノリスの足元へと私は歩いていき、ひざまづいてザックを下ろす。中を開いてガラスの瓶を取り出し、ふたを開いた。ランタンの火に照らされ、瓶の中身は琥珀こはくを溶かし込んだように透明な金色を返している。彼の者が愛した荒涼こうりょうの風の香りを嗅ぎ、私はピースハイルとエレシノの精油にスピリットを注いだ。限りなく純粋に近いアルコールと精油は瞬く間に混ざり合い、互いの境界を曖昧にすると、淡い翡翠ひすいの色を帯びた液体へと変ずる。その様子を、私の隣に屈み込んで見ていた涼が訊ねた。
「これは何ですか?」
「土と水の結晶を混ぜて蒸留したものだ。これに草木の繊維を寄り合わせたものを浸して火をつける」
 モノリスの下には拳ひとつ分ほどのくぼみがあり、小皿が備えられてあった。私はその小皿にゾドムの打ちひもを横たえ、翡翠色の混成油を慎重に垂らす。小皿一杯に満ちたところで打ち紐が油をたっぷりと含むのを見、ランタンから取り出した種火を移すと、それはモノリスの足下で煌々こうこうと燃え、黄土の光を放った。光はモノリスの中を、夜空へと向かい駆け上がっていき、ほのおの揺らめきが漆黒の石の柱に明滅する幾何学きかがく的な模様を浮かび上がらせる。残るモノリスにも同じようにして火を灯していくと、山頂にほど近いこの場所に、星が見守るその下でV字の光が描きあげられた。最後のひとつに混成油が足りたことに安堵した私は瓶に蓋をし、涼の元に戻った。
「よかったよ。もうピースハイルもエレシノも最後だったから、これでダメなら永久に見せることができなくなるところだった」
 涼は火の光に魅入られ、モノリスの不思議な明滅に口元で手を合わせ、ただ「綺麗…」と呟いた。
「涼は、確か牡牛座だったね」
「ええ、そうです」
 私の呼びかけにしばし惚けていた涼は少し驚いたように応えた。彼女がとても感動してくれていることに私は誇らしい気持ちになり、方位磁石で南を確認し、その方へ指を差した。
「あっちの方だ」
「なにがあるんですか?」
「今の時間、あの辺りに牡牛座が出ているんだ」
 私は南中する輝星と星団の名を挙げ、星座の並びを涼に教えた。涼は少し戸惑いながら、私を真似て南の空を指差して牡牛座を探した。
「ええと、あの三つ並んでいるのがオリオン座で、その右斜め上の方に明るい星がアルデバラン、でしたっけ。その上にすばるがあって、それと―――」
 涼はゆっくりと、丁寧に確認しながら星の名と、その並びを指先で描いていった。あるいは星の地図でもあれば、すぐにでも理解するに至ることが出来たのかもしれないが、あいにくと私にそんな物を用意するほど気の利いた頭はなく、またそれを持っていようはずもなかったのだった。私たちは時間をかけて牡牛の角とその体躯たいくを形作っていった。
「星座の形なんて学生の時以来です」
 と、牡牛座を見つけるまで時間がかかったことに、涼は肩をすくめて言った。
「でも先生が星に詳しいなんて、知りませんでした」
「いや、私もあんまりよく知らないんだ。この冬の時期の星座は少し調べた程度のものだよ」
 じゃあ、どうして、という涼の表情を見、私は後ろを指した。光を衣のようにまとうモノリスのV字が、なお絶えることなく揺らめいている。
「これは牡牛座を模したものなんだ。星占いで使われる記号に似ているだろう」
 涼はモノリスの並びと、空の配列とを交互に見比べて納得したように私に笑みを見せた。
「狙っていたわけじゃない。でも気の利いたものを選び出せるほど私の持ち物も多くはない。だから、こんなものしか、きみに見せてやれるものがなくて…」
 ここは私にとっての約束の地。誰しもに不便だ危険だと言われてなお、心を置いて離れることができない場所。これまで誰にも、どんな時にあっても、その存在を明らかにはしてこなかったこの地に、他者を招き入れたのは涼が初めてだった。だからこそ、誰にも教えなかったからこそ、私が、私自身の心を明け渡すことができるのは、ここをおいて他にはなかった。モノリスの炎に向き合い、ひざまづいてゆるしの秘跡を乞うが如く、私は自らの井戸の奥深くを流れる隠された水脈に光が差し込むのを感じ、ひどく透明で純粋な清流が囁くのを聞いた。ひとたび発せられた水の音は強く、あまりにも遠く隅々に響きわたるようで、私は一度言葉を遮る。風に、星の輝きに救いを求めて上を見上げた時、すべての決意は完遂かんすいされたことを知った。
 光なき闇の中を流れ続けた思いを汲み取って、私は涼に向き直る。じっと私を見つめるその瞳に、今度だけは視線を逸らすことなく、言わなければならなかった。
「涼―――。私は…私はきっときみを幸せにはできない」
 かすかに目を見開き、しかし涼は何も言わない。
「今の私にはきみの望むことを叶えてはあげられない。必要だと求められても、何も渡すことが出来ない。応えようと思っても、ここにいる限りどうすることもできないと思う」
 星の流れが、私にその一歩を勇気づける。

「だから、私は山を下りるよ」

 思いのすべてを希望に賭けて放った私の告白に、あまりに意外だったのだろう、涼は驚いて口元に手をやった。何かを言い掛けているようにも見えたが、私は続けた。
「いいんだ。もう何も、ここには残ってはいない。麓の街でやり直そうと思う。小さな平屋で。環境が変われば土も変わってしまうだろう。けれども、またそこから、一から作っていけばいい………」
 そんなにも頼りなく見えたのだろうか。心配する目で涼が私の腕を掴んだ。また、彼女が近くにいると感じて、ほっとする自身を思い、私も涼の手を取る。
「私は、大丈夫だよ。器を潰されたとしても、それにはもう慣れてしまったさ。何度潰されても、その度に作り直していけばいいんだってことも知っている。時間はかかったとしても」
 まるで、これ以上は続けさせまいとするかのように、私の袖を握りしめる手に力が込められ、涼が私に身を寄せる。胸の中に隠れてしまった彼女がどんな表情であるか、私にはわからなかった。が、私はその華奢な体を、花を包むようにそっと抱きしめる。
「涼、それでもきみは、そばにいてくれるかい?」
 私の心臓のすぐそばで、涼は何度も頷き、言った。
「はい。私、先生と離れたくない…」
 それは確かに、私に届けられた。
「ありがとう。私もきみと離れたくない。山を下りたら、ずっと一緒だ」
 山の風が舞う。雲を散らし追い立てたその笛の音に惹かれるようにしてモノリスの炎が光を増す。風のよどみをものともせず黄土の光に呼応する星の輝きは、いつしか強くなっているように感じさせた。
 空と大地の狭間、双方のアルデバランに見守られる中で、私たちは唇を重ねた。




4.


 雲も雨もなく、ただ風の流るるまま。私たちは嵐の中に身を投じ、溶けて混ざり合うことを願うようにして互いを求め続ける。解き放たれた胸の扉を感じながら、それでもなおそびえ分かつ双璧を重ね合わせ、その奥に、暗がりの中にあろう光を欲して、夜が明けるまで、あさましいほど、狂おしいほど―――

 目を覚ますと、寝室のカーテンは半分だけ開けられていた。押しやられていた曇たちが舞い戻ってきたのか、窓の外が純白に染められているのが見える。意識が溶けて闇に落ちるほんの少し前、こうすることで安心するとささやき、重ね合わせてきた涼の手のひらの感触はまだ私の中に残されているように感じられたが、ベッドの中は私しかおらず、毛布に彼女の痕跡こんせきが抜けがらとなってあるだけだった。いつにない、体の気だるさを覚えながらも起きあがると、どうやら時刻はすでに昼頃になっているようだった。切りつけるような冷気は柔らかく、帯紐おびひもを解いた暖かみを覚えており、朝のそれとは異なっていたからだった。しかしどこかに忍び寄る気配のような冷気はベッドの足下に澱んでおり、私はある予感を胸に、服を取ると寝室を出た。窓越しにバルコニーを覗いてみると、白く濃いかすみの中に消えてしまいそうな小さな背中を見つけた。
「おはようございます」
 出窓を開けてバルコニーに足を踏み入れると、気が付いた涼が振り向いて笑みを見せてくれた。
「なんだかすごいきりですよ」
「雲が降りてきたんだ。今日は降るかもしれないね」
 バルコニーの下、庭の様子さえ定かにはうかがえないほど、ひどい煙りようだった。家の中を片付けるのに精一杯でとても庭まで手を付ける余裕はなく、荒らされた惨状を今だけでも見えなくしてもらえるのはありがたかったが、家の周りがどうなっているかもわからない。完全な白の世界に閉じ込められたかのような光景だった。おまけにベッドの中からは感じられず、また窓の外に出るまで気付かなかったが、外の空気は水の気配をはらみながら鎖のように結実して吹き溜まっている。寝起きの体温を奪われて身震いをひとつ、私は予感がやがて現実となるのを確信した。
「これは、雪になるな」
「中に入りましょう」
 すでに昼の頃だろうに、眠りから冷や水を浴びせられた私は涼の言葉に抗うべくもなく従い、家の中に退避した。木造家屋の我が家は暖かく、そんな私を癒してくれたが、しかし取り囲む雲は今に冷気を纏ってその身を千切り、白い結晶となって舞い降りてくるだろう。一階におりてリビングの時計を見れば、確かに午前11時も間近。これより先で雪が降れば、雲にもよるが、明日の朝にかけて大雪になるかもしれない。
「涼、家に戻るなら今のうちだ。帰れなくなるかもしれない」
 薬缶に水を汲み、火をかけていた涼は振り向いて一度窓の外を見やり、少し考える仕草を見せた。
「さっきまでそれを考えていたんですけど、こんなに濃い霧の中じゃ道に迷いそうで、帰るのも危ないと思うんです」
「雲だから下まで行けば問題はない。雪が降ってしまうとそれこそ身動きが取れなくなる。なにより、きみはもう二日も戻ってないんだ。このままというわけには…」
「私は大丈夫ですよ。家に帰っても、やらなきゃいけないことがあるわけじゃないですから」
「片付けなら、あとは書斎くらいだろう。それなら私一人でもできる―――」
 と、言い掛けたところで、私は涼に気が付いた。どこか所在なさげに手を組んだり、視線を泳がせている。一瞬、訝しむ私と視線が合い、涼の背後で火にかけた薬缶が沸騰ふっとうの汽笛を鳴らした。
「お茶を淹れますね」
 きびすを返して涼は私から視線を逸らしたが、もはや如実に表れていた。私と目があった瞬間に彼女の頬には紅が差し、背中を向けたとしても髪の合間に覗かせる耳までもが赤くなっていたのだ。どうやら嵐の余韻よいんは未だ残されているらしい。その、言外の拒絶の意さえも、うとい私にまでわかり得るほどはっきりと伝えられたのでは、これ以上口を開くことははばかられた。
 とりあえずたばこでも吸って気分を変えるべきか。そんなことを思いかけた私は、ふと指先で髪を梳いた涼の仕草に気が付いた。普段、彼女があまりやってみせることのない動きだったからだ。その理由について訊ねることで、私はこの雰囲気を変える糸口を見出した。
「今日は髪をおろしているんだね」
 私の知る限り、女性にしてはやや短すぎるほど、ずっと涼はショート・ヘアだった。髪に対するこだわりがあまりないのか、長い髪が重苦しく感じられるのだと彼女は言っていた。しかし、いつの間に艶良く伸びたその髪は正しく流れると言った様子であり、肩にしだれる黒の妖しさもあって私には新鮮に感じられた。
「実はゴム紐が切れちゃったんです。ずっと放ったらかしにしてたから、もううるさくって」
 やはり涼はあまり好ましく思わないようで、鬱陶うっとうしそうに頭を押さえてみせる。私はふと思い付き、ハーブティーの茶葉を混ぜて湯を淹れる涼の背に立ち、その髪に触れた。
「ちょっといいかい?」
 そう言って私はうなじから背中、肩にと広がる髪を丁寧に集め束ねて梳いてみた。細くて柔らかい髪だった。絹の糸を思わせる黒髪は纏めると実に上質な反物たんものを思わせるほどきめ細やかであり、光沢を放っている。
「あんまり手入れしてないから、バサバサじゃないですか?」
「そんなことはない。綺麗な髪だ」
 気恥ずかしそうに俯いた涼の後頭部に、束ねた髪をくるりと巻いてまとめると、私はその中に縞瑪瑙しまめのうの飾りのついた髪留めを差し込んだ。手を離すと、涼の黒髪は解けてバラバラになることもなく、彼女の頭の後ろで留められ、うなじを露わにした。
「あ、すごい」
 まるで手品でも見せられたかのように、涼は纏められた髪に何度も触れ、嬉しそうに振り返って見せた。パタパタとスリッパの音を立てて洗面所に駆けていき、鏡で確認して瑪瑙めのうの飾りに触れる。
「どうやったんですか?」
「なんのことはない。かんざしのやり方だよ。留め金はそのためのものじゃないけれど、飾りは似合うと思ってね」
「これ、すごく綺麗です」
 涼の髪に差した髪留めは、果たして本当に髪留めだったのか、私はよく知らない。銀か真鍮しんちゅうのような、やや鈍い光を返す金属を打って形作られ、くびれた留め金の部分だけを見て、私はそれと思ったのである。留め金の先には銀糸を織り交ぜた細い紐に結わえられた黒い縞瑪瑙―オニキスの飾りが提げられている。黒の表面には金の象眼ぞうがんが施してあり、小さな飾りをよくよく目を凝らしてみると何かの文字のような、模様のようなものを見て取ることができる。それを意志ある言葉と取るか、奇抜な模様と思うかは判然とはしなかったが、いずれによってもその瑪瑙の持つ魅力は涼の髪にあって、彼女を良く引き立たせていると私は思った。
「気に入ったのなら、いずれ本職の物を贈るよ」
「いえ、私はこれで………。これがいいです」
 そう言って涼が見せた笑顔に、私はとても嬉しい気分になった。私にとって、長い髪は辛い思い出を呼び起こすものでしかなかったのだ。今に至り、涼の髪に触れた私は、しかし深い井戸の底を窺おうとしてもそれらが浮かび上がってこないのを感じていた。
 改めてハーブティーを淹れる作業に戻った涼を見、私は思うのだった。希望は確かなものになった。涼、きみはいま私の希望であり、私はきみに導かれるだろう、と。


+ + +


 朝食を済ませ、再び片付けの作業に入った私たちがまず行ったのは、昨日処分することを決めて分けておいた不必要なものたちをまとめることであった。これ自体はさしたる労を重く感じさせることもなく、単にまとめてあった物をゴミ袋に放り込むだけということもあって呆気ないほど速やかに完了したのだった。昨日までのことを思えば私の家はようやく一つの事態について収束に向かいつつあることを感じられるくらいにはなっているらしい。家に潜む者共を一掃した後で、むしろ私の家は身を軽くし、快い風が通り抜けて、だいぶすっきりとしたようにさえ思える。と、そんな風にしておよそ片付いた部屋たちを眺めてから向かったせいなのだろうか、最後まで残されることになった書斎に至ったとき、私たちはごまかしようもない、ある既視感に襲われていた。おそらく私自身は慣れてしまっているのだろうが、こと涼に至っては書斎に入るなり小さくため息をこぼした。
「ちゃんと片付けてなかったからかもしれないんですけど…」
「もはや私が散らかしたのか、蛆虫うじむしがやったのかわからんな」
 書斎の惨状は、これまでの部屋の惨状とはやや異なる様相を呈していた。確かに他の部屋と相違なく、ここでは書棚の書物の一切が引っ張り出され、昨日まではその棚も倒されていた。応急的に書棚だけは立て直し、書物たちを元の場所へ戻すのを後回しにすることにしたのだが、それがかえって現状を小難しく思わせるものにしているとも言えた。つまり、床にぶちまけられた本の類が転がる状況が、である。ここはそもそも奴が荒らすよりも先に私が書棚のあらゆる書物を一度ひっくり返しており、諸々の事情により涼が片付ける前に無頼の襲撃にあったわけだが、こうして棚だけ立て直した書斎に立ってみると被害が出る前と後との差はあまりないようにも思えるのだった。荒らされる前からどっ散らかっていたために、その実ここだけ唯一被害を免れたのだと言われれば、そんな気がしないでもない。つまり私の散らかし方もずいぶんなものだったわけで、それを蛆虫がもう一度丁寧にひっくり返したとしても、傍目には散らかっているという状況そのものに変化がなかったのだ。
「いや、だが、さしもの私も全部を床にぶちまけはしなかったよ」
「私としては一人でやらずに済んだので良かったですよ」
 チクリと刺されたので、私は口をつぐんだ。黙って作業を始める。
 まずは散らばった書物の中からレタリングの揃うものをまとめ、シリーズごとに仕分けていく作業からだ。実を言うと私はこれまで一度読んだ本を読み返したりすることがあまりなかったのだった。それは私のひとつの特徴だと言われ、自身では大変厄介な悪癖の一つとして数えている、その記憶力が故のことだった。ほとんどの書物は一時の集中と高揚感を与えてくれるものだが、私の場合は一度読んでしまったものに対してそれを過信して再度開こうとすると、その中身のほぼすべてを覚えてしまっていて、一度は大いに盛り上げてくれたものがひどくつまらないものに感じられてしまうのだ。それはとても苦痛であり、裏切られたような気分になって私を失意の暗がりに放り込んでしまう。と、そうした思いさえもまたしっかりとこの頭は覚えているため、二度と訪れることのない興奮を惜しんでその本に触れることさえどこかで拒んでしまう。すると私の書斎は途端に、大凡おおよその人間が思い描くであろう、一つの夢でもある大きな書棚いっぱいに整然と並べられる書物たちの、オーケストラと声楽隊の奏でる第九の舞台を連想させる重厚な雰囲気が音を立てて崩れだし、ただ雑然と、出鱈目でたらめに押し込められただけの見苦しい牢獄のような有様に成り下がるのである。そのくせ、古本屋などで目を引くレタリングを目撃しては大きな期待を寄せて購入し喜々として読み込むことをやめないので、まっこと、独裁者のエゴだけが成し得る不当な逮捕の末に収監される無実で哀れな囚人たちが際限なく増えていく悪政がここまで続けられることになるのだ。記憶力と悪癖の是正ぜせいはまるで結びつけることができないもので、そうした刹那せつなの快楽と引き替えにその後の激しい後悔と苦悩を続けることを私は一向にやめようとしない。事実、これらの本との付き合い以外においてもその記憶力によって今なお鮮明に思い出される過去への追憶ついおくを、あらゆる時に私は繰り返し、繰り返しては絶望にむせび泥に這ったあの頃から離れられずにいる。
「あ、懐かしい。この本はよく読んだなぁ」
 涼が乱雑に散らばる中から表紙さえ擦り切れそうな一冊を見つけて言った。古い本だった。
 そんな灯台の明かりのように幾度も巡っては私の奥底を照らし出す記憶のフラッシュバックから救ったのもまた、涼だった。彼女が私の家に出入りするようになり、基本的に私は何をするか、一切の注文をしてはこなかったのだが、彼女は私が何を言わずともバルコニーを使えるようにしたし、庭に花の彩りを添えた。そしてこの書斎においてもその実績は残されている。それがこのレタリングを揃えて収めていたという事実だ。数多の書物を整理するのは大変な苦労であったろう。いまこうして仕分けようとする私は、いつの間にここまで膨大な量に膨れ上がったのか、その数の多さに圧倒されかかっていた。書斎の部屋一つが完全に紙の束どもで埋め尽くされている。当時は書棚の中とは言え、引っ張り出して整理するのは時間と労力を相当量注がなければ出来るものではない。少なくとも私は一人でやるのは御免だ。
「所有者としてこんなこと言うのは良くないが、これをよく整理したものだね」
「きちんと揃えていた方が見た目が綺麗じゃないですか」
 まったく以てその通りであり、その通りであるからこそ、それを散らかしたということに私は罪悪感を覚えていた。今回のことで涼にかけていた苦労の、あくまでもごく一部であろうが、その片鱗へんりんに触れたこともあって、これに懲りて自身にも少なからず自制する心を持たなければならなくなることを予感していた。
「まあ、読み始めたら止められなくて、シリーズを通して読んでいる間にまとめられたっていうのが本当なんですけどね」
「そうだったのかい?」
 確かに時折書斎から涼が本を持ち出して読んでいることは知っていた。が、それでも、その他の家事に支障をきたしたことはなく、一体いつの間に読んでいたのだろう。彼女が家の中のことを取り仕切るようになる前、あるいは私がこの家に住み始めたのを知って遊びに来ていた学生時代からのことを言っているのかもしれない。まあ、雇われた家政婦のように他人行儀のまま家の中を機械的に掃除するだけの存在になってしまうよりは花を植えることも然り、書斎の本を楽しんで読んでいるというのなら、私は大いに結構だと思う。
 ともかくただ乱雑に、腫れ物に触れることを嫌い臭いものには蓋をして目を背けることを繰り返していた私にとって、形の上でもまた涼がそれを整理し、彩りよく変えてくれたことで私は再び彼らに触れるきっかけを見出し、一つずつ自身の中でケリを付けていくこともできるようになっていったのだった。
「そういえば…」
 いくつかのシリーズ物の本をまとめて書棚に収めた涼が何かを思い出して私に問いかけてきた。
「前に整理したときに、ここの壁に何か文字が書かれていたのを見つけたんです。どこだったかしら…」
「そこの扉の脇にあるやつのことかな?」
 私が指差した先を見、涼は「ああ、そうです」と言って書斎の扉の脇に屈み込んだ。
「これです。壁に彫ってあって…一度聞いてみたかったんですけど、これって何の言葉なんですか?」
 涼が示した壁の一文とは煤の染み渡った木造の壁に、おそらくその色に変ずるよりも前に彫られたものであろう、それ自体がすでに壁の一部に吸収されかかりながらも辛うじて読みとることの出来るものだった。おそらく先の丸い、切れ味は悪かったであろう刃で丁寧に彫られた文字は英文で書かれている。
 私は、私が住むよりも遥か昔からこの家が様々な人物たちの雨風をしのぐ屋根と壁とをもたらし安寧あんねいの眠りを与えてきた、小さくも古き歴史を持った家であることを思い出した。
「それは私が彫ったものじゃないんだ。たぶん前の住人がやったんだろう」
「そうなんですか? どうしてこんなことを」
「さあな」
 如何なる事情の下で、また如何なる心理を以てしてこんな言葉を、こんな場所にわざわざ刻み込まなければならなかったのか。それはその人物でなければわからないことであり、私は永劫教えを乞うこともできないことを知っている。二度とは帰らぬその人が万感の思いを託したであろう言葉の真意にも、私にはたどり着くことはできないだろう。理解し得ることができるのは、その一文がもたらすあやしい言霊ことだまの魅力だけだった。


Let the red dawn surmise
 What we shall do,
  When this blue starlight dies
   And all is through.


「紅の暁に思い馳せよ。この蒼き星明かりも絶えて、全てが過ぎ行く時に…。詩歌の断片かもしれないね」
「私には、何か大切な決意を印したものに思えるんです」
 多くの人がそれを願いながらも、私のような者が幻想だと言ってしまうものの中に、言葉がある。真実というものが存在し、確かな形を持って横たえられる時、そこに言葉は存在しないのだと思っているのである。真実は言葉では語り表せるものではない。所詮、それは一つの記号であり、ごくわずかな一面のみを取り上げたものでしかなく、真実そのものを語ることなど言葉を使っては決して叶わないのだ。同時に、そうであるからこそ言葉というものは受け取り手によって様々に変化しうる可能性を常に残しているのであり、もしも涼が壁のこの一文にそれを思うのであれば、それは涼の自由であり、また彼女にとっての真実の一部にもなり得る。私のそれとは異なり、闇に真意を逃したこの英文を読み、そうした感想を思い浮かべられるのはやはり涼であるからなのかもしれない。
「そう思うのなら、大切にしまっておくことだ。いつかきみにも、それと同じ思いを抱くときが来るかもしれないからね」
「はい」
 そう言って納得したように片付けの作業に戻った涼が、しばらくしてまた私に訊ねた。
「この前、言ってましたけど、探し物は見つかりましたか?」
 一瞬、それを聞いた私は何のことを訊ねられたのか、思い至らなかった。何かあったろうかと考えたが、頭の中にはっきりとしたものが見出せず、涼が再度この書斎を散らかした理由について私が探し物をしていたと言ったらしいことを教えてくれたが、しかしそれでもなお私にはそれが何であったか思い出せなかった。ここ数日の蛆虫絡みと思しき奇怪な出来事に神経をすり減らしていたこともあり、わずか四日ほど前の記憶であるのに、なぜかその晩のことについては明瞭めいりょうには回帰できない。
「確かに何か探していたような気がするが…忘れてもいいものだったのかもしれないな」
 自身にも釈然しゃくぜんとはしなかったが、いま頭の中をかんがみるに不足に感じる物はなく、問題はないように思えた。何かに満ち足りた思いを感じることはあまり多くない。が、しかし今をおいてはそうした不定形の欲求の影が忍び寄ることもない。もしかしたらすでに私は見つけてしまっているのかもしれなかった。涼への思いがそうであったように。

 さて、先ほど私は一度読み終えた本を読み返すことはないと言った。家の中の全体を平たく見渡してみたとき、おそらくこの書斎に関してはひどく荒らされてはいなかったと判断できるはずだった。確かに膨大な量の書物があったとはいえ、家具は壁沿いに並べられた書棚があるだけで数は手指で数えられる程度しかなく、立て直してしまえば物を収めるのにもこれまでのような容量不足を感じる苦労もない。そんな、比較的容易であった書斎の片付けを最後に回したのは、涼がどうしても片付けの最中に気を取られてしまうのだと言って、やりたがらなかったのだ。そういうことをしない私にも、およそ理解することは出来る。本というものには他にはない、私たちの知的好奇心に働きかける独特の魔力が存在するのだ。つまり、片付けの途中で自らに思い出があったり、また開いたことのない書物を見つけてしまったとき、特に涼は思わずその表紙を開いて読み始めてしまうものなのだ。
 そして実際、しばらくの間整理と収納の作業に没頭していた私が涼の快活な動きが凍り付いたように止まっているのに気が付いた時には、すでにその魔法は実行された後であった。先ほど見つけた懐かしい一冊か、それとも読んだことのないレタリングが目に止まったのか、彼女は書を開いて読みふけってしまっていた。いや、正確には少し前からその兆候ちょうこうがあったのだと思う。本を手に取り表紙をじっと見つめていたり、はっとして作業に戻ったりといったことを繰り返していたのも私は視界の端に見ていた。涼自身、危惧きぐしていたからこそ、そうならないようにと心に決めていたのだろうに、ついに知性の純然たる欲求に負けてしまったらしい。もう手遅れだとは思ったが、私は一応涼に声をかけてみた。とても純粋に、空に向けたように一切の反応が返ってこない。何事に対しても熱心であることは涼の長所であると私は思っているが、こうして本を読んだり編み物をするときなど、時折涼はこうなってしまう。まるで子供のように一心に集中して周りのことを忘れてしまうのだ。こうなっては気が済むまで読ませてやるしかないだろう。
 私はそっと書斎を出て、小休止をすることに決めてたばこを吸いに所定の場所であるリビングの窓辺に向かった。ここでたばこをくゆらせることについて涼が快く思っているとは思わないが、しかし私は庭の見えるこの窓辺での一服が好きだった。
 たばこに火をつけ、外に目を向けると、ついに空を覆い私の家をも飲み込んでいた白銀の分身たちが舞い降りてきているのが見えた。綿菓子のようにゆらゆらと楽しげに宙を舞い、辛うじて見える庭土の上に降りてなおその身の白を消すことのない、予想したとおりの大粒ではっきりとした雪の結晶が次々に結実し、庭を真っ白に染めようとしている。どこか懐かしい思いがして私は窓を開ける。山の中、風もおぼろに漂う雪の日に現れる、凛と引き締められた空気の香りを嗅ぎ、かすかに耳に届けられた結晶の降り積もる儚い音を聞き、いつもの遠い山の情景も、庭の花壇も、私の家そのものまでもが白くなろうとしている。
 再び私は自身の中の何者かが声を上げ、その直中より遠雷えんらいのような既視感きしかんが襲いかかってくるのを感じた。
 全てが白に染まる。あらゆる彩りは拭い去られ、闇をも圧しコントラストの全てを、この目が認識するものの境界をぼやかしていく。識別することを封じられた私の目は大いなる正午によって決して日の下においては見透かしうることのできないはずの、奥底へと導かれていく。そう、これはあの時に手にした感覚。
 既視感が私の記憶を写し取り、囁きかける。
「探し物は見つかったんですか?」
 先ほど問いかけられた、涼の声。いまは書斎で本に夢中になっている彼女の声が私の体の中でリフレインし、骨の髄に至るまで響きわたっていく。狭く浅い入り江に放たれた水の波紋のように、涼の声が、その言葉が広がり、岸に跳ね返っては複雑に、幾重にも重なっては幾度となく荒波と化して打ち寄せてくる。そしてそれは残響を繰り返すほどに、調律された弦楽器の調べを思わせる涼の声を狂わせていく。旋律はねじ切られるように崩れキーが乱高下し、抑揚すら失って、あらざる者の声へと変わっていく。

「探し物は見つかったんですか?」

「探し物は見つかったんですか?」

「探し物は見つかったんですか?」

「探し物は見つかったか?」

「探し物は見つかったか?」

「探し物は見つかったか?」


 響く。
 重く、石を踏み砕くような声が―――




「黄の印は見つかったか―――?」




 水底で打ち鳴らすクリスタルのように、終末の問いかけが私の中に共鳴する。この囁きは一体何者の声なのか。重厚にして七色に輝く鐘の響きに打たれ、根本まで燃え尽きようとしていたたばこが指の間から滑り落ちる。足下が覚束なくなり、私はよろめいて窓のサッシに手を付いたが、そのまま床に膝から崩れ落ちた。足が、手のひらがなまりを注がれたように重く感じられる。
 また、あの者の気配がする。

 荒々しい音を立てて書斎の扉が開け放たれ、壁に激突する。体当たりでもしたかのような勢いで涼が飛び出してきたかと思うと、彼女はそのまま慌ただしくスリッパの音を立てながらどこかへと駆けていってしまった。その血相を変えた様子にただならぬものを感じ、私はもはやまともではなくなった我が身を、手足を引き摺るようにしてやっと体を起こし、這うようにして後を追おうとした。非常な労力を用いて書斎の入り口まで到達したとき、私は床に落ちていた一冊に気が付いた。それは先ほどまで熱心に涼が読んでいた薄いレタリングの一冊であり、巻末までが開かれた状態で床に放り出されていた。首の座らない赤子の身じろぎにも劣るほどの動きで、どうにかその本を手に取ってみる。

「黄衣の王」

 その表紙に記されていた文字を読み取り、私は驚愕した。なぜ、なぜこれがここに、私の家の書斎にあったのだ。こんな恐ろしい物がなぜこの場所に…?
 これを書斎に置いた記憶はない。これは二度と開いてはならない書であり、決して触れてはいけないのだと心に誓ったはずだ。呪われた真言を記し、それを読んだ者を混沌の深淵しんえんに誘ったと謂われ、事実これを手にした者は例外の一切を漏らさず凄絶せいぜつに破滅し、いまやその内容を知る者も、疑念を打ち明け語り合う人々すら口を閉ざし絶えて、荒廃こうはいの結実とまで叫ばれ恐れられた書。この書の第二部にあたる戯曲がもたらす恐ろしくも蠱惑こわくの物語は人が触れることを絶対にゆるしはしない。まだ若かった橘の彼女の身に起きた惨憺さんたんたる不幸の影にその存在が囁かれ、事実足るものと私が知るに至り、そのあまりにも不気味な存在感に耐えかねて、全ては火に投じられたのではなかったか。しかし、いまこうして私の手に舞い戻り確固たるその存在感でもって表題を掲げた書を前に、私にできたのは、ただ無力に震える手で表紙を閉ざすことだけだった。
 まさか―――。絶望的な確信が頭をよぎり、私は石を詰め込まれたかのような体を強引にふるい立たせ、涼を呼び、彼女を捜した。廊下を渡り階段を駆け上がって、涼を見つけたのは私の寝室に至ったときだった。涼は今朝まで横になっていたベッドの上で膝を抱えてうずくまっており、私が呼びかけても顔をあげようとはしなかった。私は慎重に彼女の下に歩み寄り、ベッドにもたれ掛かって、顔を近づけるとそっと顔を上げさせた。涼が、その瞳が私を捉えたとき、彼女は何かを言いそうになったが、しかし何も口にはせず、私はその闇が落ちたことを思い知った。もはや問いただすまでもなく、蒼白になった顔や、それでいて酸で溶かし込んだように抜け落ちた表情、色褪せてしまった眼差しを見て、涼が黄衣の王において禁断とされた第二部までをも読み、その過ちに罰を受けたことを理解してしまったのだ。なんとしたことか。どうすることもできず、ただ震える肩を抱きしめ、私は涼が落ち着くのを根気強く待ち続けた。
 やがて白の世界にも闇が忍び込む頃になり、涼は目を閉じて静かになった。眠っているのかどうかはわからなかった。
 私は涼をベッドに横たえると、再び一階に降りて書斎に入った。深く暗い谷底へと引き摺り込まれるようにして床に座り、薄く、閉ざされた黄衣の王を開く。私は自らの奥底よりのうなり響く声に導かれるまま、彼の戯曲の最初から最後までを、我が身に刻み込むように一言一句の全てを引き込み覚えるために読み通したのである。


+ + +


 轟裂ごうれつきしみあげる激情が万雷のように切りつけ、刺し貫かれた我が身は傷口より吹き出した血の飛沫しぶきをようやく抑えることができたものの、しかしなお私は荒い呼吸を繰り返し、また正気を取り戻すことが出来ないでいた。地を揺るがすように心の鼓動が強く、早く打ち鳴らされる。悪意のビーコンが明滅するように大きく深い呼吸を繰り返す肺に冷気が食い込み、胸から全身が凍り付いていくのを感じる。比重の重い金属質に変わってしまったかのような冷たさが手にのしかかり、もはや支えることも出来ずに本が床に落ちる。
 ああ、なんとしたことだろう。この戯曲に彩られた言葉たちはいまや私の中で厳粛げんしゅくな旋律を奏でている。よもや私が知り得る言語の解をも越えて、彼の主の姿が私の脳裏に、眼球の裏側に浮かび上がっていく。もはやこの世界のあらゆる言葉を用いても、畏怖いふの念が、畏敬いけいの思いがすべてを阻み、明確に記すことは許されないとわかっている。しかし黄衣の王なる書において、大いなる決意の下、塔へと挑んだ彼の者の滑稽こっけいな勇気と万死に値した罪深さとを思わせるほどの物語が、これを記した者を語っている。純然たる結晶のように澄み渡る言葉が、月を見上げ闇の中にあって光り輝く言葉が、こうこうと湧き上がり満ちていく泉のほとりに立ちすくむ言葉が、天の福音のごとく奏でられた癒しの言葉が、無知も賢なる者をも等しく理解しうる言葉が、呪われた死よりも恐ろしく圧倒する言葉が、魂の希望無き地獄に、人の心に這い寄る言葉に魅了され麻痺した者へ、怒りも、悲しみや諦観をも青い仮面の下に飲み込んだ主の慈悲じひによって罪と罰とを、そして赦しを告げている。
 私は、否、私たちは心の中に鈍く単調に語り合っていた。同じ書を読み、その全てを知るに至った時から、離れていてもなお互いの心が通じるのを感じる。影が集う気配に気付くこともなく、霧の果て、鏡のように張り詰め、波打つことを忘れてしまったかのような湖面の水の上に立ち尽くす王と仮面の妖しい双眸の見つめる先、ハリの岸辺に立つ涼と、それに寄り添う私とは、ハストゥルとカッシールダの姿であったのだろうか。
 すべての謎は明らかにされた。涼が味わった罪の苦さを私自身も知るに至り、それは私の、そして涼の心をも暴いてしまったのだ。黒い教会の鐘が打ち鳴らされるのを聞き、私は声をあげて、腕と足とに熱せられ柔らかく液体に変じた鉛が注がれるのを感じた。焼き印を押され、獣のように呻り悲鳴をあげる私が見た物は、ただれ、沸騰した手が真っ白に膨れ皺を刻んでいく様子であった。体液が濁り膿と化して内包され、うろこのようなかさを形成する。私は全身を震わせて罪の宣告に絶叫した。腕や足だけではなかった。腹や背、顔までをも、私はあらゆる場所から、あらゆる角度から責め立てられ、全身を焼き尽くされていく。苦痛にのたうつことも許されず、ただ罰を受け入れ、世界より乖離かいりした声で叫ぶ。荒涼の風が過ぎ去り、何者かの気配を感じて私が振り返った先にいたのは涼だった。書斎の扉の、初めて会ったときのように影から私を見ている。私は彼女の目に、絶望と悲哀が歪み刻まれたのを見て、全てを理解した。


 私だ。私だったのだ。
 ハスターの証を探して家を這いずり、彼女を恐怖させ悪夢を与えていたのは私自身…。


 扉の影から飛び出し、涼が入ってくる。私は叫んだ。
「来るな! 涼、来てはダメだ!」
 私は骨身を溶かし、もはや垂れ下がり動かなくなった足を引き摺り、まさしく蛆虫のように這って彼女から逃げようとした。書斎に逃げ場などあるわけもなかったが、ただ涼の前にこの身を晒すことだけはしてはなるまいと、私は暗がりを求め闇に消えてしまおうとした。
 そんな私の思いさえ通じず、また逃げられるはずもなく涼がすがるようにして私を抱きしめて離さなかった。
「ダメだ、逃げるんだ。今すぐ、逃げてくれ。ここにいてはダメだ」
 動けない私に覆い被さり、頬を伝って涼の涙が私に降り注いだ。その涙の先に、涼と目が合った。
「ごめんなさい…ごめんなさい、章人さん…」
 すでに面影も、その声すらもあらざる者へと変わり、私を私自身足るものとしていたものはすべて消えてしまっただろう。しかし、蛆虫と化した私の冷たくふにゃふにゃの体にしがみつき、顔を伏せて涼は泣いた。その涙の意味を、謝罪の言葉が意図した先をも、とうに皺の中に埋没してしまったであろう耳に私は残酷な告示を知る。こんなはずではなかった。こんなことはもう望んでいなかった。あの時からもはや離れ旅立ち、未来を見つめ共に歩んでいこうとしていたのではなかったのか。幸せを、ベルトコンベアーを流れる工業製品よりも画一的な、ごくありふれた幸せを手に入れたくて、残された唯一の希望を頼りに、それにたどり着くことも築いていくこともできたのではなかったのか―――
 だが、もう叶わない。黒い教会の、錆び付いた金属の門が耳障りな音を立てて開かれてしまった。ただ静かにすすり泣き、すがりつく涼に、私は最後の願いを託して懇願こんがんした。髪留めを、縞瑪瑙しまめのうの飾りを投げ捨ててくれ、と。いまや私たちはその古風な象眼細工の飾りがヒヤデスの神秘に彩られた仮面の王へと通ずる黄の印であることを知っている。しかしそうした願いさえも月を望むかのようにすべては無為に散り、届きはしなかった。もはや彼女にそれを髪から外し火の中へと投じるだけの行為さえ許されてはいなかったのだ。闇よりも暗い色に染められた霊柩車がゆっくりと走り出し、私たちを迎えにやってこようとしている。夜闇の霧が集い、より深く、白い暗がりが私たちを包み込んでいく。  私は己の全てを賭けて腕を動かした。骨を失い、肉がのたうつだけの体はわずかな動作にさえ応えようとしなかったが、私は唸りをあげ、あらゆる力を振り絞って腕をあげ、涼の顔に触れた。もう、何も感じられない。頬を伝い、うなじをかき分けて髪留めに触れ、震える手に満身の力で以てそれを涼の髪から投げ捨てる。解けた髪が羽のように広がり、肩に垂れて涼の顔を隠す。投げ捨てられた髪留めは音も立てず、闇のどこかへ消えた。

 雪の降る音が聞こえる。ただ静謐だけがある。
 私は、この身の中に車輪の音を聞いた。ゆっくりと、ゆっくりと、それは近づいてくる。脳裏に、輝く洞穴のような壁面の先、黒い十字を掲げたアルデバランのミサに、私はひざまずいて告解する。カルコサの住人たちが彼の王をたたえる聖歌を歌い、それはついにやってきた。
 私は再びうなりをあげてのたうち回った。抱き留めていた涼を振り切り、沸き上がる灼熱の風が皺だらけの体を焦がさんと押し寄せ、床を転がる。

 来る。

「逃げろ…すず、か…」
 もう涼がどこにいるのかわからなかった。ただ彼女の声だけがすぐ近くから聞こえるのだけはわかり、もしかしたらなおも私にすがりついているのかもしれなかった。それが私には絶望以外の何者でもなく、十字架にはりつけにされる思いで、何度も、何度も涼に逃げるよう声にもならない声をあげ叫ぶより他になかった。
 車輪の音がすぐ近くで止まる。私の体は引き裂かれ、ついにすべての感覚を失った。涼が悲鳴を上げる。闇よりの使者に先導され、現れた王は半ば宙を漂いながら、青白い仮面を傾けて彼女を覗き込み、鮮やかな黄色の襤褸ぼろを開く。その中に涼は闇よりも重く、深い魂の墓場を目撃しただろう。恐怖も悲哀も圧し、コートの中の闇が涼へと伸びた時、黄衣の王は青い仮面に手をかける。溶けるように消えた仮面の奥に何を見たのか、それを知ることだけは許されなかった。


+ + +


 雪は深まり、私の家はいま白く閉ざされようとしている。それらが溶けて過ぎ去り、山に緑が舞い戻ろうとする頃に、あるいはもっと先で誰かが私たちを見つけるかもしれない。
 雪深く凍り付く中で何が起こったのか、人々はあらゆるものを頼りに調べ、見聞きして想像することだろう。山の中に立つ古い家の書斎で静かに眠りに就いた女性の身に何が起きて、なぜ彼女が死へと到達したのか、その理由も明らかにはできまい。この家の主がいずこへと消えてしまったのかと想像をかき立てては、下世話げせわな妄想に酔いしれて肥え太ることだろう。そして涼の脇で、肉か、あるいは気味の悪い塊が崩れてできた山がかつて人であり、人を愛した者であると理解することはできないに違いない。
 私はいつ、いつから狂ってしまっていたのだろう。 すべてはあの雨の記憶へと還っていく。あの日、霙混じりの雨の中で、襤褸になり果てた互いの心は小さな飾りとなって私のコートに残されていた。
 見る者が見れば、どんな方法も論理も思い浮かばずとも、私の身がすでに人のそれでなくなるのに十分な時間の経った死体であったと思うであろう。しかしそれよりも前から、私は破滅していたのかもしれない。
 ただその死体が最後に触れようと伸ばした手の先にある、その言葉こそが最後の真実であり、私がついに知り得た真意そのものであった。

Let the red dawn surmise
 What we shall do,
  When this blue starlight dies
   And all is through.

(燃える暁に思い馳せよ、我らは何を成すべきなのか
この蒼の星明かりも耐えて、すべてが過ぎ去ろうとする時―――)

 二度と目を覚ますことのない眠りに落ちた涼を見、追うこともできないことを呪っている。
 この呪われた世界を見た者がすべてを封印してくれることを願ってやまない。

 私はどこで過ちを犯したのか、それだけが―――




Fin...






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Dancing in the Yellow 〜黄衣の王〜を閉じる ※このページを閉じます。



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