Dancing in the Yellow
← 補足情報あり。読むがよろし
雨の中を
幾重に織り重なり垂れ込めた雲はその身と手を広げて山々に降り注ぐのだろう。地に降り立った子供たちはやがて身を寄せ合い集まって、川となり流れに導かれて街へ注いでゆく。
私もまた、そんな流れに引き摺られ、どこからか流れ着いたようだった。
説明しがたいことは、あまりにも多い。一体、何者が私に、
ただ雨の中を彷徨っていた。
いつの間に土と落ち葉だった足元も絶えて、無機質なアスファルトが私の
車輪の音もないのに、律儀にも人々は交差点のシグナルに従っていた。白線の手前に横列を作り次々に人と布の塊たちが並んでいく。あっという間に交差点の前は人間でごった返し、その中に私も飲み込まれた。
ここにきて私は少しだけ意識を取り戻した。同時に、次に頭上に掲げられた青と赤の光が互いの色を交換した時、私はまた無気力にも流れに引き摺られていく自身の無様を予感した。傘を差す気力もなく、雨に濡れる苦痛すら忘れたその男の姿は
私は愚かさを呪った。この流れに引き摺られ、彷徨い続けることを、あるいは望まれたことだとでもいうのだろうか。骨身を泥のように溶かし、それを適当な誰かに責任を押し付けて、何を得ようというのか。
笑ってくれ、大いに、
盆の覆水を傾けたように、予想通りの流れが生まれた。無言の意志に従う人影は一斉に対岸の同士と包容し、熱いキスを交わそうと駆け出していく。
背を押されるようにして、私もその重い足を引き摺る歩みを踏み出そうとした。
その時、不意に流れに反し、あらぬ方向からやってきた何者かと私はぶつかった。
あれは幻の姿であったのだろうか―――
1
その男は存在しないはずだった。少なくとも私は気付いてはいなかった。
今朝の外は実に心地よかった。森の木々の合間に
そしていつものように、仕事に取りかかるはずだった。
今は少々寂しい風体になってしまっている我が家の庭を越え、玄関を開けた私は、作業場に行く前に一声かけておこうと
私は二度ほど呼んだが、涼はいつものように彼女しか使わないスリッパの音をパタパタとたてながら、しかし玄関にはやってこなかった。一瞬、彼女はまだやってきていないのではないかと思ったのだが、鍵が開けられていることを考え、不審に思った私は靴を脱いで
単に落ち葉を退けるのにあまりに熱心であったために私の声が届かなかったのなら、可愛らしいことだったろう。しかし私がバルコニーに続く廊下へと到ったとき、見えたのは出窓のガラスに背を預け、小さくうずくまっている彼女だった。驚いた私がバルコニーに出て涼を呼んだとき、彼女は
動揺する涼をなんとか一階のリビングまで連れて行った私は落ち着かせるために彼女がいつも私に淹れてくれるハーブティーを作ろうとした。が、茶葉の配合を知らなかったために、私は自他共に認める不味い日本茶を淹れる羽目になった。
それでも私の不器量も手伝ったか、時間が立って涼は少し落ち着きを取り戻した。私は慎重に何があったかを訪ねた。
涼は初め、その男には気付かなかったと言った。
私がそれを疑わなかったように、彼女はいつも通りに私の家にあがるとすぐにバルコニーへと向かった。
「昨日はそんなに風も吹いていなかったから大丈夫かと思ったんですけど、あがってみたらちょっとびっくりするくらい落ち葉が溜まっていて、ムキになって掃除に没頭してしまったんです。それで、気付かなくて…」
涼は自身の不用心さを恥じていたが、私には特にそれを問い詰めたり、責めるつもりは毛頭なかった。というのも、そもそも私の家は街の郊外のさらに外、よほど熱心か、さもなくばあぶれた営業者でさえ足を踏み入れることを
「それで、見知らぬ男がいたんだね」
涼は頷いた。
「やっと落ち葉を集めて一息ついたところで、門の方に目がいったんです」
それでも当初は辺りの木々とその陰、まだ揺らめいていた
「すごく、気味の悪いひとでした。そこにいるってわかってから私も目を凝らして見たんですけど、家の方に背を向けて、こう、首を深く
涼は思い出してまた恐ろしくなったのか、細い指をさらに白くするほど湯飲みをきつく握り締めた。
「その男の何がきみをそこまで嫌悪させたんだい?」
私の言葉に、涼は深く息をして自身を落ち着かせようとした。涼は穏やかな気質の女性で、訳もなく人を嫌ってみせるような理不尽を
「その人の手に気付いたんです」
「手―――?」
「青白くて、
「それで驚いて腰を抜かしてしまったのか」
「はい。もう本当に怖くて…」
若い女性にありがちな、不安に起因した過剰な嫌悪や警戒感は時に人を怪物にせしめることはある。涼には珍しくも思ったが、私はというと、彼女の説明から我が家を取り巻く緑を葉に見立て、その中で膨れた蛆虫が身を捩る様を思い浮かべていた。
私は立ち上がると窓辺に向かい、レースのカーテンの隙間から門前を伺った。
「先生は帰ってくるときに見なかったんですか?」
「いや、私はいつも通り玄関から入ったが、誰もいなかったよ。そして今も見た限りでは誰もいないな」
カーテンを開けてみても、そこに映るのは冬の風に晒されて眠りについた墓地のような庭と、今は霞も晴れてその先にある森の緑と山の稜線が朝日の中で織りなす深いコントラストの情景だった。今日は時間が過ぎてなお遠く立ち並ぶ山脈を伺えるほどひどく空気が澄み切っている。不穏の影を伺い知ることはできなかった。
私は腕を組み、うむと呻いて、とにかく彼女の不安を取り除こうとした。
「まさか君が枯れ木を見間違うはずはないしな。何者か知れないが、しばらく用心しておこう」
そう言って振り返ると、涼が私の方を見ていた。少し驚いたような、安堵したようにも見える表情を浮かべて。私が眉根を上げたのを見、涼は恥ずかしそうに言った。
「もしかしたら鼻で笑われてしまうかもって思ってました」
普段、私がどういう態度をしているか、時折涼は鏡のように映し出す。
「私だって、たまには人の言葉も信じて見るものだよ」
やれやれと頭を掻いたが、見てもいない、どこにいるかもわからぬ
「涼、とりあえず今日はもう帰りなさい」
私の言葉に涼はきょとんとした。
「怖い思いをしたんだ。無理に掃除なんかしなくていいから、帰って休んだ方がいいだろう。日のあるうちに送っていくよ」
「でも、」
「いや、いいんだよ。それでなくとも君はここのところ毎日私のところに朝早くから来て、日が沈むまでいるだろう。疲れてるんだよ。暗い山道を一人で歩かせていた私にも責任がある」
柄にもないことを口走り、私は息をついた。少々上気したのか、手にむず
私に言われたことをじっくりと解きほぐすように涼は考え、旨くもないだろう茶を飲んで言った。
「でも先生」
「ん?」
「ちらっと見ただけでも書斎と居間がすっごく散らかってましたよ」
ひび割れるように、私の額に皺が刻まれたに違いない。
「昨日ちょっと探し物をしてね。なに、あんなものはすぐに片付ける」
「あと、手ぬぐいと
眉にも、それは深く刻まれたに違いない。
「お台所は綺麗でしたけど、まだなにも食べてないんでしょう?」
さて、涼を怖がらせた男と私の今の顔はどちらが醜い様を呈しているだろう。
ぐうの音もない私を見、しかたがなさそうに涼は笑ってため息をこぼした。
「展示会の器もまだ出来上がってないんでしょう。私は大丈夫ですから、始めてください」
「いや、そうはいかないよ。片付けは自分でやる。飯もなんとかする。洗濯だって後回しで構わんから―――」
「今日着るものがあるんですか?」
見事な一突きに、ついに私は標本に縫いつけられた蝶のごとく大人しくならざるを得なかった。
「…でも、」
涼は湯のみを置いた。中の茶は飲み干されていた。
「先生の言うとおりにします。お洗濯だけしたら、今日は帰りますね」
私は情けなく肩を落としたが、まあ、日が暮れる前に山を降りられればいいだろうと自分を納得させ、手のひらを擦った。
+ + +
じゃあ、作業場にいるから何かあったら呼びなさい、と言ったまでは良かったが、そこに至るまで結局私は作務衣の用意から朝のトーストまでを涼に頼ってしまった。人が己の姿に気付くのはこういうときなのかもしれないが、決まって思う自身とはかけ離れた情けなさを伴うものであるらしい。
ともあれ私が作業場に入ろうとした頃には涼もいつもの快活な動きを取り戻して、青ざめていた表情も朗らかになっていた。それで私も少し安心して土に向かうことができた。
―――のだが、そこからは私の不運が始まった。
なぜだろう。作業場に入る頃になり、私の中に得体のない不快なものがあった。
それでも亡霊は去ろうとはしなかった。気を取り直そうと、また荒れた自身を
失意と嫌気に味付けされた煙草の煙は想像を絶して悪かった。にもかかわらず私はわずかに吸っては潰し、なぜかまた火をつけることを、作業場の脇に設けられた灰皿の前で繰り返していた。
これは取り返しのつかない病気であるように思えた。地獄の沙汰を見下ろす彼の彫刻の
「先生?」
声がして顔をあげると、涼だった。綺麗に畳まれた手ぬぐいを持っている。
「休憩ですか?」
あまりにも他意を含まない純粋な言葉で、私はげんなりした。皮肉も返せず無言で目をつむるしかない。そんな私の無礼な態度は慣れっこの涼は問いただすわけでもなく、手ぬぐいを置きに作業場の引き戸を開けて中に入った。彼女はそこで
「先生、何があったんですか!?」
驚きの表情そのままに叫んだ涼に、私は冷ややかに凍りついて応えた。
「なにも―――」
また煙草を潰した。
「なにもありゃしないよ。あるわけもない」
作業場の
「みんな潰れてしまってます」
「私が潰したんだ」
「どうしてですか? あんなに時間をかけて作っていたのに」
「私の手がゲロゲロになっちまったんだよ」
私は頭を掻き、その頭を掻いた手のひらを実に
「藤田の土になにか混ざっていたのかもしれない。あるいは作業台の足がぐらついていたのかも。でなければあんな風に叩き潰すほど造形が崩れるわけがない」
まるで若年性の癌細胞のように、病気は私を、そして作業場の棚で乾きかけていた我が子らにまで急速に拡大していった。否、癌が他者へ移るはずはないから、結局は私が潰したのだろう。造れば潰し、こねれば泥と化し、出来かけは割ってしまった。
私の精神衛生上よろしくなかろうと、そういうことはしないようにと涼には忠告されていたのだが、今度ばかりはやりきれなさに衝動を抑える術を私は見出せなかった。衝動がもたらす快楽は言わば自己破壊という人間の本能だった。破滅的な活動の中に、本能は私に真実を確かに伝えていた。土も台もおかしくなどなっていない、と。おまえ以外の何者にそれを成し得るのか、と。真実とは、私のささやかだった理性を踏みにじる怒りだった。いつしか、それを正しく認識することは困難を極めたが、私は自身の中に湧いた白面の影を感じ、それに激しく苛立ち、恐れていた。
今はもはやただの
大方の片付けが終わり、作業台も拭いて手を洗っていると、涼が出来損ないの山と化した土を眺めながら呟いた。
「私が、あんな話をしたからですか?」
その、涼の申し訳なさそうな目や口調にあてられて、いつ責めるような言葉を吐かなかったかと私は心底心配になってしまった。
「あの変な男を見たなんて、気味の悪い人の話をしたから―――」
「私がそんなに感受性豊かな男だときみは思っているのか」
知らず、必死な口調が混ざる。
「誓っていうけれど、君のせいなんかじゃないんだよ。いつもの
ただ、私の気が変えられたとすると、確かに涼から青白くしわくちゃな男の話を聞いてからだった。それまでは私はいつもと変わらず、もしろいつもより気分が良かったと思う。だからと言って涼の話の何者が私に
「全部、私のやったことだ。君が気にすることじゃない。振り出しに戻っただけのことだよ」
言いながら、果たしてこれは誰に向けて放つ言い訳なのか、自身に言い聞かせようとするある種の
居間に入り、腰を伸ばそうとしたところで私は時計を見た。それに涼がわずかに早く言う。
「もう午後1時をまわっていますよ」
「ああ、こんなに長くやるつもりじゃなかった」
塩をかけられたナメクジよりも
+ + +
今日はどこぞのスーパーでセールがあり、そこでまとめ買いをするつもりだったのだと、涼は告白した。まだやることがあるのではないかと巣作りの小枝を探すビーバーのように働きたがる彼女をどうやって目覚めさせようかと考えるうちに、私はふと冷蔵庫の扉を開けていた。私はビールを飲まない。山の坂道を登る涼に重い瓶を運ばせるのに気が引けるのもあるが、そもそも炭酸の類が苦手なのだ。私が夜の友に楽しむ酒はウィスキーやブランデーがほとんどで、それらの保管場所は窓を閉ざした、薄暗い
「久しぶりに街で夕飯の食材を買いに行くことにしよう」
私はすがるような思いで宣言した。
冷蔵庫が空だったのは、それはそれで私にも好都合であった。ようするに半分は意地なのだった。とにかく涼を今日くらいは早く家に帰してやろうと思い、それが自身の勝手で遅らせるということが、いつになく許し難いことであるように思えてならなかったのである。あざ笑うがいい。如何なる権利にすがろうとも家事全般、飯のアテすら握られれば、その善意を前には手も足も出ない。涼には申し訳なくも、しかし私にとって、こうと決めた彼女の思いを曲げさせるための説得はこれほど非常に困難で、苦労も
+ + +
涼が山道を走るのに重宝すると言って愛用するMTBは
「すみません。今日は何もできなくて」
「そんなことはない。いつもきみはよくやってくれている」
私の言葉に涼は恥ずかしそうに首を傾げて見せた。すっかり葉を落として眠りについてしまったブナの木を見上げ、私は遠く流れる渓谷の流れに耳を傾ける。
「今年はいつも以上に冷えるが、雪が少ないな」
「前は大変でしたから。私はお天気が続いてくれた方がいいです」
「まあ、そうだな」
一度なり寒波に空が覆われたとき、私は家までの山道を雪と路面に張り付いた氷に閉ざされて、孤立無援の中にいたことがある。白銀の直中にあることに恐怖がなかったわけではなかったが、すべてのコントラストが消えゆく様に私は一つの喜びを見出そうとしていた。呑気なものだと涼には大変に怒られた。というのも、下界では涼をはじめとする私の残り少ない
およそ一週間であったと私は記憶している。その間、ほとんど飲まず食わずであったにも関わらず、寒波の中で身を守る手段をほとんど講じていなかった。実際、命に関わるようなことにはなっていなかったのだが、巡り巡ってそれが涼の耳に届き、彼女はとても心配して、ついに私に身の周りの世話をすると宣言したのだ。
「雪のない冬も悪くない。この冬はこのまま続いて欲しい」
今の私はそう願っていた。雨の記憶の、その後に私がながらえることができたのは、確かに涼のおかげであった。
山に
山の下り坂を越え、
「先生、ちょっと話してもいいですか?」
「なんだい?」
涼は一瞬、
「実は今朝の男の人を見たときに驚いたのは、その人を見たことがあったからなんです」
「なんだって? どこで?」
「いえ、どこでもないです。見たと言うよりは出た、と言った方が正確かも…。夢の中に、あの人が出たことがあったんです」
私は涼が何を言わんとしているのか、理解しかねていたが、彼女に続けるよう促した。
「最初にその夢を見たのは去年の夏頃だったと思います。普段、そんなことはないんですけど、どうしても寝付けない日があって、その日に限ってはずっとベッドの上で寝返りばかり打ってました。壁掛け時計のルミブライトの針が真夜中を差して、一時になり、二時を差して、それでも眠れなくて―――。空が白んでくるのを感じて目を開けたとき、私は窓のそばにいてカーテンを開けたんです。でも窓の外はいつもの街の様子からは想像もできないほど灰色にくすんでいて、まるでゴーストタウンのように静まりかえっていました。怖くなって目線を下に向けたとき、私の家の前にあるはずもない、真っ黒な外壁に覆われた教会が建っているのに気付きました。いつの間にそんなものが建っていたのかと思って、外に出て教会の門の前まで出たときに、通りの先から車輪の音が聞こえてきたんです。まるで私が出てくるのを待っていたように…ゆっくりと、少しずつ車輪の音は大きくなっていって、とうとう通りの角から真っ黒な車体が顔を覗かせたんです。その車は、霊柩車でした。陰のような教会の門に、その車はまっすぐ向かっていって、私の横を通り過ぎようとしたときに運転席でハンドルを握っていた御者が不意にこっちに振り向いたんです。目が合って震え上がりそうになったところで、やっと私は目覚めて、夢だったと気付きました。シーツを握り締めて、汗びっしょりになって。秋口にも同じ夢を見て、私はやっぱりベッドの中で震えていた…そんな夢を、昨日また見てしまったんです。夢の後は決まってひどい顔になるので、今日は少しお化粧をしてクマを隠さなきゃいけなくなっちゃいました」
最後の方で涼は気遣いからか、少しおどけた感じに言っていたが、その声は震えていた。私は彼女の化粧に気付けなかったことをようやく自認して、平静を繕って、うむ、と頷いた。
涼はまっすぐに私を見、覆い隠すのはもはや難しかったのであろう、その不安を
「その、霊柩車を運転していた御者が、今朝先生の家の門前にいた男だったんです。最初は、もちろん見間違いだと思いました。けれど、あの顔と、ハンドルを握っていた手だけは夢の中の彼以外の何者でもなかったから…」
「滅多なことを言うものじゃないよ」
そろそろ私たちは互いのように行く道を分かとうというところまで来ていたが、私は立ち止まり、山の風に晒され揺れる木葉のように震える涼の肩に触れ、彼女を落ち着かせようとした。
「疲れているんだよ、きっと。夢の中の住人は現実には出てこない。君は夢と、その男への恐怖心を混同しているんだ」
「でもっ…!」
顔を上げた涼の目にはうっすらと涙の筋が引かれていた。それが少なくとも彼女は虚構や
「私はもう三度もあの夢を見ているんです。最後、あの男は必ず霊柩車の中から私をじっと見つめている…あの顔を忘れたり、普通の人と見間違えたりするはずないんです」
思わず叫ぶように語気を強めていたことを自覚し、はっとした涼は私から目を背け気まずそうに「ごめんなさい…」とこぼした。
私はただ心配になって言った。
「涼、今日は一人で大丈夫か?」
彼女の両親は、まだ土を捏ねることすら覚束なかった頃の私にまだ幼かった涼を紹介してくれたその人たちは、もう亡くなっている。いま涼は両親が残そうとし、唯一それが叶った家で一人、暮らしていた。こんな時に他に息づくものも絶えた広い家に一人残されて、不安がフラッシュバックしないだろうか。
「今日はもう、早く寝てしまいなさい。好きな音楽をかけて旨いものを食べて、温かくして寝てしまえばいい。そうすれば不安な夢なんて見ないだろう」
私の精一杯の言葉に、今度の涼は耳を傾けてくれた。ぐすっ、と鼻を
「先生」
「ん?」
「信じてくれるんですか? その、私の見た夢のこと」
「信じるよ」
「今朝の男の人のことは…」
「それも信じる。だから、まあ、私に言えたことじゃないが、家の戸締まりはきちんとしておきなさい。不安だったら友達を呼ぶのもいいだろう」
+ + +
そこまで話してようやく、私たちは残りわずかとなった分かれ道までの道程を再び歩き出すことができた。私は別段宣告をするわけでもなく、岐路に立つと歩を止めることなく涼の向かう方へと足を向けていた。先の話を聞き、とても途中で分かれるという選択肢へは通れなかった。
冬至も過ぎて、少しは長くなろうとしているのだろうが、まだその成果を感じることは不可能であった日の傾きはすでに夕刻の空から急速な勢いで夜へと落ちようとしていた。なるべく長く彼女といることが良い選択かと漠然と判断していた私は、しかし私の家よりも低い街にあっては、こうも夜が早くに訪れることを思い知り、早々に家まで送らねばならぬと歩を速めた。
なんとか日が沈むよりも早く涼の家にたどり着くことができ、彼女が玄関を開けて中に入るまで、私は律儀に見守った。
「ありがとうございました。おやすみなさい、先生」
涼が頭を下げ、扉の向こうに消えてしまうまでを見届け、施錠される音を聞いた私は、少し
それでも自身の中に、決して腑に落ちようとしない何かがあった。後悔である。
2.
翌日になり、寒さに耐えかねて歯の根が合わなくなりそうな私にちょっとしたニュースを運んできたのは、私と同じく早朝の軽い散歩を得意とする、私や涼が
空が白み、青を取り戻しつつある中、日が昇る間際になり、私はようやく微かな
ここまで来れば、というよりここまで来なくとも、私の家まで一本道である。待っていれば向こうからやってくることにようやく諦めもつき、私は街道沿い、やや古びて褐色を濃く日焼けしつつも、年月の重厚さを格式高く誇り伝えるような木造の家屋が整然と建ち並ぶ住宅街も目の前というところで、ついにふてくされてタバコに火をつけ立ち止まった。
タバコの煙も凍てつく先で野島と私が目を合わせたのは、そんな時だった。一瞬、野島は物珍しさを臆面も隠さない顔で私に白い歯を見せ、近づいてきた。
「旦那様、珍しいですな。こんな時間に山を下りてらっしゃるとは。昨日は良い夜だったので?」
誓って私はこの男から旦那呼ばわりされる関係にはなく、野島の
「残念だが大した夜ではなかったな。私は
「おや、それもまた珍しい。では、何かあったので?」
「いや―――」
適当にあしらってしまおうとして、私は言葉を遮った。この野島の軽い調子ではあまり期待できないような気がしないでもなかった。が、他に聞ける相手が間近にあるわけでもなし、また自身の情報量の不足には、これ以上の時間、無為に過ごすのは良くないだろう。
私は昨日の件について心当たりを尋ねようとしたが、それよりも先に野島は勝手に口を動かしていた。
「そういやぁ、旦那様。うちの近くにある平屋が空いたんですよ。この辺りにしちゃ中々広い方だし、庭もついてましてね。管理してる不動産屋の長島に聞いてみたら年数の割に結構安いってんで、旦那様、一つどうです?」
「なぜあんたが長島の回し者になってるんだ?」
「そりゃもう旦那様のためじゃありませんか。いい加減、不便な山暮らしなんか引き上げてこっちに来ちゃえばよろしいでしょう。下界、下界と旦那様は仰りますがね、こっちに来りゃ飯屋も飲み屋もアッチの店もいっぱいあるんですぜ? 旦那様、最近下りてきてないから、あたしが見つけた良い店も教えちゃいますよ。そりゃもう旦那様好みの綺麗なお嬢ちゃんがいる店があるんで。どうです、旦那様?」
朝っぱらからおまえは何を色呆けているのかと、寒さに食指も動かない私は冷ややかにタバコの火を握りつぶしていた。そんな私に気付いてか、野島は観念したように本音を口にした。
「いやさ、旦那様。こんな寒空の下を毎日毎日、
まあ、そういうことを言いたいのだろうことは私も
「残念だが、今はそんなことを考える時ではないよ」
いつも通りの言葉に、野島が食い下がることはなかった。深海で押し黙る岩のように
「ところで―――」
私は新しいタバコに火をつけながら、ようやく自身の問いを出せる機会にありつけた。タバコの箱を野島にも差し出してみたが、彼は手を翳して静かに遮った。
「最近、この辺りで不審な男が出たという話を聞かなかったか?」
「旦那様、藪から棒にケーサツみたいなこと聞きますね」
野島の軽い調子は変わらなかったが、私が妙な感覚を覚えて顔をあげると、彼の顔から表情の色が抜けているのが見えた。私に感づかれたことを察し、ごまかすように野島は白い歯を見せる笑みを貼り付けた。
「へへっ。バレちまいましたかね。えぇ、旦那様の言うとおり、実は一度変な野郎があたしの店の近くを
「それはいつのことだ?」
「かれこれひと月も前じゃなかったかと。あのウジ虫野郎、雨降りの中であたしの店の前に突っ立ってましてね。浮浪者がゴミ漁りに来たんじゃないかと思ったんですが、しばらくはあたしも店のことで作業してたんで無視してたんですよ。それで夕刻から日も落ちてお客が
「どんな成りをしていた?」
「いえもう、あれはただの浮浪者でしょう。
野島が苦虫を噛み潰した顔をし、腕を組んで身震いしてみせたのは、おそらく今更寒さに震えたからではなかったろう。
「顔?」
「えぇ、馬鹿なと笑わないでくださいよ、旦那様。あいつの顔は普通じゃなかったんです。まるで、いやそこらの病人でもあんなひでぇ顔にはなりゃしません。それくらい顔がぶくぶくに膨れて、しかも膿みでも溜め込んでるのか、妙にヌメるような
「よほど不健康な男だったのか」
「不健康、ねぇ…。いや、決して馬鹿にした訳じゃありませんよ旦那様。でもあたしから言わせりゃ、ありゃ死人の顔ですよ。それこそホントに顔中の穴から今にも
如何にも胸くそ悪いと言った表情を浮かべる野島の、自身の店の中ではもちろん、例え外でこうして私と冗談を交えて話す時でさえ滅多に吐くことのない
野島は身を屈めて私に顔を近づけて尋ねた。
「でも旦那様、もしかしてあたしにそんなことを聞くってことは…」
「ああ、実は私の家に現れた。おそらくあんたが見た、そのウジ虫野郎って奴だろう」
野島は目を向いて顔をしかめた。
「ええ!? あいつ旦那様のところにまで出たんですかい?」
「まったくご苦労なことにな。だが私は直接は見ていない。そいつを目撃したのはすず…
「うへぇ。お嬢さんが見ちまったんですかい。男のあたしでも気味悪くて逃げちまうほどだったのに、あんな若い娘さんじゃあ、ちょっと刺激が強かったのでは?」
「察しの通りだ。二階から遠めに見たというのに腰を抜かしていたよ」
この、
「怖かったでしょうなぁ、お嬢さん。で、何かされたんで?」
「幸い家の門のところに立っていただけで中には入ってこなかったし、私が朝の散歩から帰ってきた頃にはいなくなっていたから、大丈夫だった」
「そりゃあ、まあ怖かったにしろ、とりあえず良かったでさぁね。それにしてもお嬢さん、一人の時に奴を見ちまったんですねぇ。おかわいそうに」
そこで私は思い至り、泥沼の奥底からゆっくりと沸き上がってきた泡のような疑問を野島に尋ねようとした。なんのことはない、
私が口を開こうとしたとき、不意を打つように野島が何かに気付いて通りに視線を送った。私もつられて、そちらの方に目をやると、
「まあ、こういうことだ」
ようやく寒さに震える身に、日の光はもとより、
「はい?」
野島が何を言っているのかと首を傾げたのを見、私は安堵の意を込めたため息をもらした。
「最初に聞いたろう? なぜこの時間に山を下りているのかと」
そこまで言い、私は涼の方に手を振った。野島は小さく、ああ、とこぼした。
+ + +
私たちは早々に野島と別れると街道を越え、私の家へと続く山道への道を昨日と同じように並んで登り始めた。
「びっくりしちゃいました。先生がこの時間に山を下りているなんて。あ、もしかして昨日はどこかでお酒を飲まれたんですか?」
野島にも同じ疑問を投げかけられていたことを省みるに、私は私が思う以上に、というより必要とされている以上の信用を未だ以て得られていないということなのかもしれない。あれほど散々に
「待ってくれ。私は不信で無感動な人間だと口走ったかもしれないが、薄情であると言った覚えはない」
あらざる誤解への弁解のつもりが、どういうわけか刻まれていく涼の眉間の皺に、私は拳を振り下ろされんとする
「誓って言う。昨日はそんな気分ではなかった。この通り、私は素面なんだ」
涼が白面のように表情を消して押し黙る。これ以上は絞っても何も出ないぞ、というまな板の
涼が視線を外し、手を口元に運ぶと笑みをこぼした。
「わかっていますよ。先生の二日酔いは飽きるほど見てきましたから。素面の時との違いくらい、私にだってわかります」
「からかってくれたな」
「その、昨日のことで、心配してい来てくれたんでしょう。ありがとうございます」
「元気そうで何よりだ」
まあ、こうして人をからかう余裕があるのであれば、少なくとも昨日の私の思いは杞憂であったのだろう。涼の内心はまともであり、私にとってもまた彼女自身が変化し得るものではなかったということだ。
日の出を待つ頃はまだ山肌を白いコートのように装っていた雲は、涼と共に分け入る時に至ってはその姿をどこかへ消し去っていた。今日は逆転して麓の街よりも少し遅かった明るい朝を迎え、山の草木や土は日の光にようやく目を覚まし、細く狭い山道を歩く私たちに露草の名残を
「先に朝食を用意しますね」
それが当たり前のことだとばかりに、涼は日々の慣例から容易に離れ、台所に向かった。
もしもまだ、私の中に彼らと向き合うだけの精神が残されているのなら―――
また土を取り、大上段に構える武士のように振りかぶって、息を一つ腑に落とす。
やがて一つの形を見いだせる頃になり、私はふと額の汗が頬を伝い落ちそうになるのを感じて、ようやく手を止めた。種土の完成はまだ五分にも満たなかったが、ここまではうまくいったように思えた。私は汗を拭くために手ぬぐいの
「先生」
呼ばれ、振り返った先に白く洗い上げられた手ぬぐいが差し出されていた。涼だった。いつの間に作業場に入っていたのだろうか。
「使ってください」
「ああ…」
私は素直に手ぬぐいを受け取ると、汗を拭った。ヒーターなど付けるべきではなかった。こう、熱くなる時に火が近くにあると後で後悔することになる。
「涼。いつからここに?」
「ずいぶん前ですよ」
そこまで言われ、私の汗を拭く手が止まった。
「すまない。朝食だったな」
「はい。でも、なんだか声をかけられなくて。先生、すごく集中されていたから」
「気にすることはなかったんだ。せっかく作ってくれたのに、冷めてしまった。それにきみだって朝は何も食べてなかったんだろう」
私は自身を情けなく思いながら、申し訳なく言った。涼は笑顔を返した。
「私は大丈夫ですよ。それより、先生の調子が戻ったみたいで安心しました」
涼に言われ、私はまた作りかけで手を止めた種土を見た。確かに昨日のことを思えば、自身にとっても、また涼から見ても私がようやく順調を取り戻していると思えた。私は満足し、また安堵して息をついた。
「昨日は遅くに友達が来てくれて、とても楽しかったんですよ」
時の頃はすでに昼近くになっていた。気まぐれな綿曇が山脈に
「電話があって、久しぶりに話したら盛り上がっちゃって、
「なんだ。ということはきみ、あんまり寝てないんじゃないか?」
涼は肩をすぼめ、ぺろっと舌を見せて
「みんなと会うのは久しぶりだったんです。だからつい飲んじゃいました」
酒に関しては私が何を言えたわけもない。もっともこれまでの涼に信用を問われるような、酒に乱れるようなことがあったわけではないし、たとえそのような席があったとして、若い女性が一人暮らしの家に易々と男に敷居を跨がせるものではない、などという親のような助言を口にすることはすまいと、私は悟られないように舌の根を奥にして
私は多少、取っつきにくくあまり性が合わないものを感じるのだが、吉志の三代子と涼は気心の知れた仲であり、またあの赤髪が紹介したという菅原の辰徳は大変な努力家であるらしかった。食事の準備を整え、席に付いた後も涼は彼らと話したことなどをとても楽しそうに私に語ってみせた。菅原について私はあまり多くを知らずにいたが、辰徳という青年は学生の身で働きながら学資金を自ら捻出し大学を卒業した苦学生だったらしい。苦労のために大学で会計学を学ぶも、その資格を得るまでに卒後まで勉学に励み、また士となってからも職にありつくことができなかったり、やっと仕事を得る場所に至っても苦労は絶えなかったという。そうした順風も知らぬ道も固く念ずるような思い一つに真面目な性分で堂として歩み越え、先日、念願叶って独立し、自らの事務所を立ち上げるに至ったと、涼はやや熱っぽく語った。
「独立したら独立したで、また苦労してるよ、なんて本人は言ってたんですけど、なんだか自信に満ちている感じでした」
食事中、というより常日頃多くを語ることを少し前から意図的に避けるようになっていた私に代わり、この家で口を開くのは涼であった。が、それを置いても、今日の彼女はとても楽しげに語り、そのにこやかにさえずる姿を私は笑みを返して見つめていた。
食事を終え、窓際に立った私はタバコをふかしながらまた外を眺めていた。今日は正午を過ぎて少し雲が広がろうとしている。その下で、我が家の庭はいっそう寂しく見えた。冬の草木に混じり、花がないわけではない。が、花があっても眠るような土の上では、どんな
「お茶が入りましたよ」
と、涼が食後のハーブティーを持ってきてくれた。私はタバコを消し、爽やかな香りを立てるカップを受け取った。涼が自ら選んでブレンドするハーブティーは、彼女の作る料理と同じように私にとっては大きな楽しみであった。少しの間、私たちは茶葉の香りに包まれ、静かに庭の風景を共に見ていた。
「暖かくなったら、また花を植えますね」
「今度はどんな花にするんだい?」
「金鳳花とか、黄水仙もいいかなぁ」
といっても私に花の名前がわかり、その名から花の姿を想像する技を持ち得るはずもなかった。
「ま、きみの好きな花を選ぶと良い。植えるときは手伝うよ」
「お花を眺めながら、またバルコニーでお茶を飲みたいですね」
別段、というより断じてこのようなことを感じるのは、今朝の冷気の直中で頭も凍り付きそうな時に、あの野島がへらへらと軽い調子で
3.
夜に至り、私が倒れ込むように床に就いたのは日付も変わった頃だったろうか。私の神経は昼を過ぎて恐ろしく冴え渡り、涼が帰ってからも風に踊る火の如く意識が張り詰め、
なぜだろう。アドレナリンに漬け込まれた神経がありもし得ない妄想をかき立てていた。夜が深まるのを感じ、
奥歯が砕けるほど食いしばり、全身を鋼のように硬直させシーツをきつく握りしめて、何かを叫びかけた私が意識を取り戻したとき、そこは
だが夢の中の感触が、途切れることさえなくまだ私の中に渦巻いている。
信じがたいものを、そこに私は見た。
リビングにあったもの全てがひっくり返され、収められていたもの全てが床にぶちまけられていたのだ。
「先生、先生!」
金切り声をあげて飛び込んできたのは涼だった。彼女の声がしたとき、私は作業場にいて、ぎょっとした悲鳴を聞きはしたものの、そこに駆けつける気力も奪われていた。家中を探し回った挙げ句にやっと涼が私の姿を見つけ、背中に飛びついてきても、私はよろめいただけで何の反応も起こせはしなかった。
「先生、何があったんですか? あんな、家が、めちゃくちゃに…」
「全部ひっくり返していったようだな」
魂ごと抜き取られたように呆然と家の中を回った限り、私の家の部屋という部屋のあらゆるものが倒され、中身を引っ掻き回されていた。茶碗や花瓶などの割れ物は全て割られ、庭に至っては花が踏みにじられていた。そして私の最後の希望さえも…。
私が絶望と共に見つめる先に涼も視線を送り、息を呑んだ。作業場の棚にあった作りかけの器たちが皆、床に叩きつけられ、潰されていた。ようやく乾きかけていたものは割れて飛び散り、まだ若かった土は泥のように広がっている。狂気すら感じる、私の
「これで、みんな、なくなってしまった」
かすれるような、弱々しい声が私の口から漏れ出る。それ以上は何も言えなかった。涼が私の背にすがりつき、きつく抱きしめ、
+ + +
後の警察が私の家に立ち入り、中を検証したところでは、およそ望むべくもなかろう金目のものには、床にぶちまけながらも一切手を付けることなく、ひたすら執念深く徹底した態度で家財の一切をひっくり返していったらしいことが告げられた。もしかしたら、奴は何かを私の家の中に求め探していたのではないか、と。涼は必死に一昨日の早朝に目撃した男の話をし、私はいつになく深い眠りのためか、気配を感じたのみで結局その姿を直に見ることがなかったと言うしかなかった。およそ情けない話であろうが、彼らもまたいくつかの報告が寄せられていたことこそ知っていても、涼が語るような男を実際に見た者はなく、断定するには至らなかった。
「先生」
呼ばれ、幾度目かに私はやっと意識を取り戻した。
「お茶、冷めちゃいましたね。淹れなおしましょうか?」
私はカップを握りしめたまま、我を失っていたようだった。
「あ、ああ…すまない」
申し訳なくカップを渡すと、涼は何も言わず新しい茶葉を用意して湯を沸かし始めた。ハーブティーが淹れられるのを待つ間に、私はタバコに火を付けて窓辺に立った。庭までもが悪意に晒された傷跡を
「
「え?」
私がぽつりと呟いたのに、敏感に涼が反応した。
「冬牡丹が折られている。
それは冬支度の頃から涼が手を吐息で温めながら世話をしてやっと花をつけるに至った、去年から今年にかけてようやく庭に咲いた冬の彩りだった。長年放っておいた私の庭の土は、決して花が咲くのに適したものではありえなかった。それを涼は丹念に、根気強く掘り起こし肥料を蒔いて少しずつ開墾していた。初めはほとんど一切の花や草木が根付かなかった。少しずつ、少しずつ、やがて私をも巻き込んで、一昨年の冬に一度畑仕事さながらに二人で鍬を持って土を洗いざらい掘り起こし、花を植えるために
涼が窓辺にやってきて、私と同じように庭を見た。私たちは言葉もなく、ただ残された傷跡を眺めるしかなかった。しばらくして、私の隣で涼がまた鼻を
「すまなかった。私がもっと用心していれば」
「いえ、いいんです。ただ、悔しくて…」
目に涙を溜め、涼は続けた。
「先生があんなに頑張って、大切にしていた器をみんな壊されたのが、悔しいです。あんなの、ひどすぎる…」
そう言って唇を噛みしめる涼に、私は何も言えなかった。心に、大きな風穴が空いてしまったように、私の中の何かがそこからすり抜けていってしまうようだった。俯くしかなかった。
「不謹慎でごめんなさい」
唐突に涼が言った。わけもわからず、私は顔を上げた。
「でも、私はあの時、安心したんです。家に入って、中が荒らされているのを見たときにすごく怖かったんです。先生がどこにもいなくて、もしかして何かあったんじゃないかって思って、パニックになりそうで」
涙が一筋、その白い頬を伝う。涼は私を見上げ、震える手で袖を掴んだ。
「見つけたとき、先生に何もなくてよかったって思ったんです。棚の器が割られているのを見ても、でも、怪我をしたわけじゃないって、器なんかどうでもいいって」
震える声を、私は自ら遮っていた。もうこれ以上聞いていられなかった。何も言ってほしくなかった。しかし、得てして開かれてしまった胸の扉を再び閉ざす術を私が知る由もなく、ただ目の前で涼の小さな体が壊れてしまいそうで、愚かしいことだが、私は自身が自覚するよりも先に彼女を抱きしめていた。
「いいんだ、涼。もういいんだ」
言ってしまいたかった。何もかもをぶちまけて、ここで話を終わらせてしまうべきだった。私は大丈夫だと嘘でも
「ごめんなさい。でも、私は先生のことが心配なんです―――」
+ + +
夜が明ける。あたかも宿命のように。
夜闇と朝の青を分かつ境界の下、まるで訝しむように切れ切れに雲が見下ろす中を、私はまた日常、そうであったように歩き慣れた山の獣道を一人、ある場所へ向かい進んでいた。
昨日、私たちはその後で、残された暴力の痕跡に対し、無言で跡形もなかったかのようにすべく、黙々と片付けに追われた。私の家が大きいと思ったことは一度もないはずだったが、中の家具に至るまでをひっくり返された
私はずっと思案していた。
家の中に産み落とされた混沌を整理しながらも、私の心の中は常に火をあてられたように
夢のままであって欲しかった。私は涼の幸せを願っていると言った。それは今なお変わってはいない。未来への意志ある者たちに彼女が導かれ、私のような泥を這いずる者からは遠ざけられてしまえばいいと。涼にはそうした未来があるべきなのだ。行く末に立つ教会で、ヴァージンロードの先、あるいはまだ見ぬタキシードに身を包む男と、自らと共にその名を刻み彫金されたプラチナの指輪が彼女を待ち、気の置けない友人たちに祝福され、花とハーブの香りの中で駆け回る子供たちへの笑顔に満ち溢れ、築いていく温かな家庭…今の涼にはそうした前途を見通すことが出来る。きっと私とでは思い描くことも出来ない未来だ。それをわかっていながら、しかし涼は私への思いを打ち明けたのだ。東西を分け、強固で高かった彼の壁を思わせた扉を開き、その狭い隙間から流れ打つ心を絞り出すように言葉に乗せた涼。彼女を抱きながら、私は菅原の辰徳のような男を愛するべきだと諭したが、流れを
私はなお、思案し続けている。
だが、もはや途絶えたものと思われていた火は
薄暗い森が途絶え、徐々に視界が明るくなっていく。友のように思って久しく、慣れ親しんだ山の頂上にほど近い場所。木々が途絶え青い空が広がるその下に、打ち立てられた九本の石の柱がある形でもって並び、私に相対している。雨の記憶の果て、雪深く大いなる正午を思わせたあの時に灯した私の心は、今はここに埋められている。日が昇り早朝の色が薄れゆく中、じきに涼は私のベッドで目覚め、階下へと降りる。まだ片付けきらない廊下を越え、リビングに入ったとき、彼女はテーブルの上に置かれたメモを見て私の中の重大な友情を知ることだろう。そこには「今夜十一時。夜空に星があったら出掛けよう」と記されている。
+ + +
航路は開かれた。昼を過ぎた頃に現れ、私を焦燥させた薄雲たちは夜が訪れると共にどこかへと去っていった。
私と涼はなお家の片付けに追われていたが、およその家具を立て直すことこそなんとか順調ではあったものの、その中身を整理して元あった場所へと戻していく作業にひどく手間取っていた。どういうわけだか、そこに収められていたものを元に戻すだけだというのに、引き出しの中は
「すまないな。今日も泊まってもらうことになりそうだ」
すでに夜も半ばになろうという頃になってしまっていて、とても下界の街へとおりるために山を歩くことが出来ない時間に、私は涼に大変申し訳ない思いで、そう言った。涼はきょとんとして応えた。
「私は大丈夫ですよ。それに、今夜はどこか連れて行ってくれるんでしょう?」
その言葉に私はきつねに摘まれた気分になった。なんだ、覚えていたのか、と。今朝、私が家に戻ったとき、テーブルの上に置いていったメモはなくなっていたが、そこに書かれていたことについて涼は私に何も問うことはしなかったからだった。朝食も早々に片付けと掃除を始める彼女に、もしやゴミか何かと間違われて捨てられてしまい、彼女はその内容を知らないのではないかと思ったのである。その後も涼の熱心な様子に聞く頃合いも見出せず、私は一人勝手に今夜の行動は家の中が落ち着いてから改めて打ち明けるべきか、などと考えていたのだ。私がそのように話すと、
「だって、せっかくお出かけするのにやることが残っていたら気分が乗らないでしょう。だから頑張って今日中に終わらせてしまいたかったんです」
と、涼は返した。なるほど、あの十二気筒エンジンさながらの高回転ぶりは、そういうことだったのか。残念ながら明日に回す作業が出てきてしまったが、それはそれで明日やれば良いだけのこと。夕飯に使った食器を洗う涼はすでにその気になっていて、鼻歌でも聞こえてきそうなほど子供のようにわくわくとしているのが見て取れた。果たして、彼女の期待に応え得るほど楽しいことがあの場所にあるだろうか。
私の家が身を置く山はそれなりの高さはあるものの、決して大きな山であるわけではない。ただ夜も半ばに差し掛かろうという時刻もあり、涼には特に温かい格好をするようにと伝えて、私たちは家を出た。本格的な登山用の装備が必要というわけではなかったが、この真冬の時期、あの場所は風も強く冷える。基本的なものを除いて私が欲した荷物はランタンと地図、方位磁石と納戸から引っ張り出した手製の瓶とスピリットだったが、涼のリクエストでさらにペットボトルに分けた純水と小さなパン、五徳を備えたガスバーナーがザックの中に追加された。向こうで温かい物を飲もうと提案されたためだった。
「山の上に星の見える場所があるんですか?」
「ああ、この時期は空気も澄んでいて、とても綺麗なんだ」
火を灯したランタンを持って私が先導し、涼は暗い森を興味深そうにキョロキョロと見渡しながら後をついてきていた。
「なんだか不思議な感じ。夜の森なんて歩いたのは初めてです」
「足元には気をつけて。木の根が張り出しているところがあるから―――」
と、私が振り返ろうとしたところで、言った側から短い悲鳴をあげて涼が
「ご、ごめんなさい」
はっとして涼が身を起こす。私の家に通って三年あまり、ずっと下界の舗装された街で暮らしていた彼女もいい加減、山道にも慣れているはずだったが、足元も見通せない夜とあってはさすがに勝手が異なるのだろう。私は万一はぐれてしまったときのことを考えて、懐中電灯ではなく周りに明かりが広がるランタンにしたつもりだった。が、そもそも涼は私を頼りに歩いているわけで、そうしたことを考えるくらいならより安全な手段を講ずるべきなのだった。
「怪我はないかい?」
「はい。大丈夫です」
「もう少し歩くけれど、森を抜ければ歩きやすくなる」
そう言って私は、可能な限りぎこちなくならないように涼の手を取った。白くて柔らかい手の指先がひどく冷えているのが伝わってくる。どこぞの青二才でもあるまいに、やや気恥ずかしく、涼の反応を待たずして私はランタンの光の射す方へと向き直り、歩を進めた。気も利かず、そこから私たちは互いの手を握ったまま、しばらく無言のまま夜の山道を歩くことに集中していた。
上空の風を遮り、眠りに就く森の中はひどく静かだった。押しやられた闇の先で葉裏の住人たちがひそひそ話をしながら、ランタンの明かりを嫌い身を寄せ合って影の中に逃げていく。闇色にかすかな穴を穿つ火の輪の中を歩き続けて四半刻もしたころだったろうか、森の暗褐色の中にわずかにコントラストをあげた色をようやく私は見通した。森が終わり、その出口となった場所に差す星明かりの色だった。
木々の合間を抜け、夜の視界が開けるのを見たとき、私の背後で涼が小さく感嘆の吐息を漏らした。覆い被さるようにさえ見えていた暗い森のヴェールが取り払われると、夜空が私たちを出迎えてくれたのだ。昼間、雨をもたらすのではないかと私を心配させた
「ここは…?」
私が手を離したことに気が付いて視線を戻した涼が見たのは、夜闇に溶け込むような
「これは何ですか?」
「土と水の結晶を混ぜて蒸留したものだ。これに草木の繊維を寄り合わせたものを浸して火をつける」
モノリスの下には拳ひとつ分ほどの
「よかったよ。もうピースハイルもエレシノも最後だったから、これでダメなら永久に見せることができなくなるところだった」
涼は火の光に魅入られ、モノリスの不思議な明滅に口元で手を合わせ、ただ「綺麗…」と呟いた。
「涼は、確か牡牛座だったね」
「ええ、そうです」
私の呼びかけにしばし惚けていた涼は少し驚いたように応えた。彼女がとても感動してくれていることに私は誇らしい気持ちになり、方位磁石で南を確認し、その方へ指を差した。
「あっちの方だ」
「なにがあるんですか?」
「今の時間、あの辺りに牡牛座が出ているんだ」
私は南中する輝星と星団の名を挙げ、星座の並びを涼に教えた。涼は少し戸惑いながら、私を真似て南の空を指差して牡牛座を探した。
「ええと、あの三つ並んでいるのがオリオン座で、その右斜め上の方に明るい星がアルデバラン、でしたっけ。その上に
涼はゆっくりと、丁寧に確認しながら星の名と、その並びを指先で描いていった。あるいは星の地図でもあれば、すぐにでも理解するに至ることが出来たのかもしれないが、あいにくと私にそんな物を用意するほど気の利いた頭はなく、またそれを持っていようはずもなかったのだった。私たちは時間をかけて牡牛の角とその
「星座の形なんて学生の時以来です」
と、牡牛座を見つけるまで時間がかかったことに、涼は肩をすくめて言った。
「でも先生が星に詳しいなんて、知りませんでした」
「いや、私もあんまりよく知らないんだ。この冬の時期の星座は少し調べた程度のものだよ」
じゃあ、どうして、という涼の表情を見、私は後ろを指した。光を衣のように
「これは牡牛座を模したものなんだ。星占いで使われる記号に似ているだろう」
涼はモノリスの並びと、空の配列とを交互に見比べて納得したように私に笑みを見せた。
「狙っていたわけじゃない。でも気の利いたものを選び出せるほど私の持ち物も多くはない。だから、こんなものしか、きみに見せてやれるものがなくて…」
ここは私にとっての約束の地。誰しもに不便だ危険だと言われてなお、心を置いて離れることができない場所。これまで誰にも、どんな時にあっても、その存在を明らかにはしてこなかったこの地に、他者を招き入れたのは涼が初めてだった。だからこそ、誰にも教えなかったからこそ、私が、私自身の心を明け渡すことができるのは、ここをおいて他にはなかった。モノリスの炎に向き合い、ひざまづいて
光なき闇の中を流れ続けた思いを汲み取って、私は涼に向き直る。じっと私を見つめるその瞳に、今度だけは視線を逸らすことなく、言わなければならなかった。
「涼―――。私は…私はきっときみを幸せにはできない」
かすかに目を見開き、しかし涼は何も言わない。
「今の私にはきみの望むことを叶えてはあげられない。必要だと求められても、何も渡すことが出来ない。応えようと思っても、ここにいる限りどうすることもできないと思う」
星の流れが、私にその一歩を勇気づける。
「だから、私は山を下りるよ」
思いのすべてを希望に賭けて放った私の告白に、あまりに意外だったのだろう、涼は驚いて口元に手をやった。何かを言い掛けているようにも見えたが、私は続けた。
「いいんだ。もう何も、ここには残ってはいない。麓の街でやり直そうと思う。小さな平屋で。環境が変われば土も変わってしまうだろう。けれども、またそこから、一から作っていけばいい………」
そんなにも頼りなく見えたのだろうか。心配する目で涼が私の腕を掴んだ。また、彼女が近くにいると感じて、ほっとする自身を思い、私も涼の手を取る。
「私は、大丈夫だよ。器を潰されたとしても、それにはもう慣れてしまったさ。何度潰されても、その度に作り直していけばいいんだってことも知っている。時間はかかったとしても」
まるで、これ以上は続けさせまいとするかのように、私の袖を握りしめる手に力が込められ、涼が私に身を寄せる。胸の中に隠れてしまった彼女がどんな表情であるか、私にはわからなかった。が、私はその華奢な体を、花を包むようにそっと抱きしめる。
「涼、それでもきみは、そばにいてくれるかい?」
私の心臓のすぐそばで、涼は何度も頷き、言った。
「はい。私、先生と離れたくない…」
それは確かに、私に届けられた。
「ありがとう。私もきみと離れたくない。山を下りたら、ずっと一緒だ」
山の風が舞う。雲を散らし追い立てたその笛の音に惹かれるようにしてモノリスの炎が光を増す。風の
空と大地の狭間、双方のアルデバランに見守られる中で、私たちは唇を重ねた。
4.
雲も雨もなく、ただ風の流るるまま。私たちは嵐の中に身を投じ、溶けて混ざり合うことを願うようにして互いを求め続ける。解き放たれた胸の扉を感じながら、それでもなお
目を覚ますと、寝室のカーテンは半分だけ開けられていた。押しやられていた曇たちが舞い戻ってきたのか、窓の外が純白に染められているのが見える。意識が溶けて闇に落ちるほんの少し前、こうすることで安心すると
「おはようございます」
出窓を開けてバルコニーに足を踏み入れると、気が付いた涼が振り向いて笑みを見せてくれた。
「なんだかすごい
「雲が降りてきたんだ。今日は降るかもしれないね」
バルコニーの下、庭の様子さえ定かには
「これは、雪になるな」
「中に入りましょう」
すでに昼の頃だろうに、眠りから冷や水を浴びせられた私は涼の言葉に抗うべくもなく従い、家の中に退避した。木造家屋の我が家は暖かく、そんな私を癒してくれたが、しかし取り囲む雲は今に冷気を纏ってその身を千切り、白い結晶となって舞い降りてくるだろう。一階におりてリビングの時計を見れば、確かに午前11時も間近。これより先で雪が降れば、雲にもよるが、明日の朝にかけて大雪になるかもしれない。
「涼、家に戻るなら今のうちだ。帰れなくなるかもしれない」
薬缶に水を汲み、火をかけていた涼は振り向いて一度窓の外を見やり、少し考える仕草を見せた。
「さっきまでそれを考えていたんですけど、こんなに濃い霧の中じゃ道に迷いそうで、帰るのも危ないと思うんです」
「雲だから下まで行けば問題はない。雪が降ってしまうとそれこそ身動きが取れなくなる。なにより、きみはもう二日も戻ってないんだ。このままというわけには…」
「私は大丈夫ですよ。家に帰っても、やらなきゃいけないことがあるわけじゃないですから」
「片付けなら、あとは書斎くらいだろう。それなら私一人でもできる―――」
と、言い掛けたところで、私は涼に気が付いた。どこか所在なさげに手を組んだり、視線を泳がせている。一瞬、訝しむ私と視線が合い、涼の背後で火にかけた薬缶が
「お茶を淹れますね」
とりあえずたばこでも吸って気分を変えるべきか。そんなことを思いかけた私は、ふと指先で髪を梳いた涼の仕草に気が付いた。普段、彼女があまりやってみせることのない動きだったからだ。その理由について訊ねることで、私はこの雰囲気を変える糸口を見出した。
「今日は髪をおろしているんだね」
私の知る限り、女性にしてはやや短すぎるほど、ずっと涼はショート・ヘアだった。髪に対するこだわりがあまりないのか、長い髪が重苦しく感じられるのだと彼女は言っていた。しかし、いつの間に艶良く伸びたその髪は正しく流れると言った様子であり、肩に
「実はゴム紐が切れちゃったんです。ずっと放ったらかしにしてたから、もう
やはり涼はあまり好ましく思わないようで、
「ちょっといいかい?」
そう言って私はうなじから背中、肩にと広がる髪を丁寧に集め束ねて梳いてみた。細くて柔らかい髪だった。絹の糸を思わせる黒髪は纏めると実に上質な
「あんまり手入れしてないから、バサバサじゃないですか?」
「そんなことはない。綺麗な髪だ」
気恥ずかしそうに俯いた涼の後頭部に、束ねた髪をくるりと巻いてまとめると、私はその中に
「あ、すごい」
まるで手品でも見せられたかのように、涼は纏められた髪に何度も触れ、嬉しそうに振り返って見せた。パタパタとスリッパの音を立てて洗面所に駆けていき、鏡で確認して
「どうやったんですか?」
「なんのことはない。
「これ、すごく綺麗です」
涼の髪に差した髪留めは、果たして本当に髪留めだったのか、私はよく知らない。銀か
「気に入ったのなら、いずれ本職の物を贈るよ」
「いえ、私はこれで………。これがいいです」
そう言って涼が見せた笑顔に、私はとても嬉しい気分になった。私にとって、長い髪は辛い思い出を呼び起こすものでしかなかったのだ。今に至り、涼の髪に触れた私は、しかし深い井戸の底を窺おうとしてもそれらが浮かび上がってこないのを感じていた。
改めてハーブティーを淹れる作業に戻った涼を見、私は思うのだった。希望は確かなものになった。涼、きみはいま私の希望であり、私はきみに導かれるだろう、と。
+ + +
朝食を済ませ、再び片付けの作業に入った私たちがまず行ったのは、昨日処分することを決めて分けておいた不必要なものたちをまとめることであった。これ自体はさしたる労を重く感じさせることもなく、単にまとめてあった物をゴミ袋に放り込むだけということもあって呆気ないほど速やかに完了したのだった。昨日までのことを思えば私の家はようやく一つの事態について収束に向かいつつあることを感じられるくらいにはなっているらしい。家に潜む者共を一掃した後で、むしろ私の家は身を軽くし、快い風が通り抜けて、だいぶすっきりとしたようにさえ思える。と、そんな風にしておよそ片付いた部屋たちを眺めてから向かったせいなのだろうか、最後まで残されることになった書斎に至ったとき、私たちはごまかしようもない、ある既視感に襲われていた。おそらく私自身は慣れてしまっているのだろうが、こと涼に至っては書斎に入るなり小さくため息をこぼした。
「ちゃんと片付けてなかったからかもしれないんですけど…」
「もはや私が散らかしたのか、
書斎の惨状は、これまでの部屋の惨状とはやや異なる様相を呈していた。確かに他の部屋と相違なく、ここでは書棚の書物の一切が引っ張り出され、昨日まではその棚も倒されていた。応急的に書棚だけは立て直し、書物たちを元の場所へ戻すのを後回しにすることにしたのだが、それがかえって現状を小難しく思わせるものにしているとも言えた。つまり、床にぶちまけられた本の類が転がる状況が、である。ここはそもそも奴が荒らすよりも先に私が書棚のあらゆる書物を一度ひっくり返しており、諸々の事情により涼が片付ける前に無頼の襲撃にあったわけだが、こうして棚だけ立て直した書斎に立ってみると被害が出る前と後との差はあまりないようにも思えるのだった。荒らされる前からどっ散らかっていたために、その実ここだけ唯一被害を免れたのだと言われれば、そんな気がしないでもない。つまり私の散らかし方もずいぶんなものだったわけで、それを蛆虫がもう一度丁寧にひっくり返したとしても、傍目には散らかっているという状況そのものに変化がなかったのだ。
「いや、だが、さしもの私も全部を床にぶちまけはしなかったよ」
「私としては一人でやらずに済んだので良かったですよ」
チクリと刺されたので、私は口をつぐんだ。黙って作業を始める。
まずは散らばった書物の中からレタリングの揃うものをまとめ、シリーズごとに仕分けていく作業からだ。実を言うと私はこれまで一度読んだ本を読み返したりすることがあまりなかったのだった。それは私のひとつの特徴だと言われ、自身では大変厄介な悪癖の一つとして数えている、その記憶力が故のことだった。ほとんどの書物は一時の集中と高揚感を与えてくれるものだが、私の場合は一度読んでしまったものに対してそれを過信して再度開こうとすると、その中身のほぼすべてを覚えてしまっていて、一度は大いに盛り上げてくれたものがひどくつまらないものに感じられてしまうのだ。それはとても苦痛であり、裏切られたような気分になって私を失意の暗がりに放り込んでしまう。と、そうした思いさえもまたしっかりとこの頭は覚えているため、二度と訪れることのない興奮を惜しんでその本に触れることさえどこかで拒んでしまう。すると私の書斎は途端に、
「あ、懐かしい。この本はよく読んだなぁ」
涼が乱雑に散らばる中から表紙さえ擦り切れそうな一冊を見つけて言った。古い本だった。
そんな灯台の明かりのように幾度も巡っては私の奥底を照らし出す記憶のフラッシュバックから救ったのもまた、涼だった。彼女が私の家に出入りするようになり、基本的に私は何をするか、一切の注文をしてはこなかったのだが、彼女は私が何を言わずともバルコニーを使えるようにしたし、庭に花の彩りを添えた。そしてこの書斎においてもその実績は残されている。それがこのレタリングを揃えて収めていたという事実だ。数多の書物を整理するのは大変な苦労であったろう。いまこうして仕分けようとする私は、いつの間にここまで膨大な量に膨れ上がったのか、その数の多さに圧倒されかかっていた。書斎の部屋一つが完全に紙の束どもで埋め尽くされている。当時は書棚の中とは言え、引っ張り出して整理するのは時間と労力を相当量注がなければ出来るものではない。少なくとも私は一人でやるのは御免だ。
「所有者としてこんなこと言うのは良くないが、これをよく整理したものだね」
「きちんと揃えていた方が見た目が綺麗じゃないですか」
まったく以てその通りであり、その通りであるからこそ、それを散らかしたということに私は罪悪感を覚えていた。今回のことで涼にかけていた苦労の、あくまでもごく一部であろうが、その
「まあ、読み始めたら止められなくて、シリーズを通して読んでいる間にまとめられたっていうのが本当なんですけどね」
「そうだったのかい?」
確かに時折書斎から涼が本を持ち出して読んでいることは知っていた。が、それでも、その他の家事に支障をきたしたことはなく、一体いつの間に読んでいたのだろう。彼女が家の中のことを取り仕切るようになる前、あるいは私がこの家に住み始めたのを知って遊びに来ていた学生時代からのことを言っているのかもしれない。まあ、雇われた家政婦のように他人行儀のまま家の中を機械的に掃除するだけの存在になってしまうよりは花を植えることも然り、書斎の本を楽しんで読んでいるというのなら、私は大いに結構だと思う。
ともかくただ乱雑に、腫れ物に触れることを嫌い臭いものには蓋をして目を背けることを繰り返していた私にとって、形の上でもまた涼がそれを整理し、彩りよく変えてくれたことで私は再び彼らに触れるきっかけを見出し、一つずつ自身の中でケリを付けていくこともできるようになっていったのだった。
「そういえば…」
いくつかのシリーズ物の本をまとめて書棚に収めた涼が何かを思い出して私に問いかけてきた。
「前に整理したときに、ここの壁に何か文字が書かれていたのを見つけたんです。どこだったかしら…」
「そこの扉の脇にあるやつのことかな?」
私が指差した先を見、涼は「ああ、そうです」と言って書斎の扉の脇に屈み込んだ。
「これです。壁に彫ってあって…一度聞いてみたかったんですけど、これって何の言葉なんですか?」
涼が示した壁の一文とは煤の染み渡った木造の壁に、おそらくその色に変ずるよりも前に彫られたものであろう、それ自体がすでに壁の一部に吸収されかかりながらも辛うじて読みとることの出来るものだった。おそらく先の丸い、切れ味は悪かったであろう刃で丁寧に彫られた文字は英文で書かれている。
私は、私が住むよりも遥か昔からこの家が様々な人物たちの雨風を
「それは私が彫ったものじゃないんだ。たぶん前の住人がやったんだろう」
「そうなんですか? どうしてこんなことを」
「さあな」
如何なる事情の下で、また如何なる心理を以てしてこんな言葉を、こんな場所にわざわざ刻み込まなければならなかったのか。それはその人物でなければわからないことであり、私は永劫教えを乞うこともできないことを知っている。二度とは帰らぬその人が万感の思いを託したであろう言葉の真意にも、私にはたどり着くことはできないだろう。理解し得ることができるのは、その一文がもたらす
Let the red dawn surmise
What we shall do,
When this blue starlight dies
And all is through.
「紅の暁に思い馳せよ。この蒼き星明かりも絶えて、全てが過ぎ行く時に…。詩歌の断片かもしれないね」
「私には、何か大切な決意を印したものに思えるんです」
多くの人がそれを願いながらも、私のような者が幻想だと言ってしまうものの中に、言葉がある。真実というものが存在し、確かな形を持って横たえられる時、そこに言葉は存在しないのだと思っているのである。真実は言葉では語り表せるものではない。所詮、それは一つの記号であり、ごくわずかな一面のみを取り上げたものでしかなく、真実そのものを語ることなど言葉を使っては決して叶わないのだ。同時に、そうであるからこそ言葉というものは受け取り手によって様々に変化しうる可能性を常に残しているのであり、もしも涼が壁のこの一文にそれを思うのであれば、それは涼の自由であり、また彼女にとっての真実の一部にもなり得る。私のそれとは異なり、闇に真意を逃したこの英文を読み、そうした感想を思い浮かべられるのはやはり涼であるからなのかもしれない。
「そう思うのなら、大切にしまっておくことだ。いつかきみにも、それと同じ思いを抱くときが来るかもしれないからね」
「はい」
そう言って納得したように片付けの作業に戻った涼が、しばらくしてまた私に訊ねた。
「この前、言ってましたけど、探し物は見つかりましたか?」
一瞬、それを聞いた私は何のことを訊ねられたのか、思い至らなかった。何かあったろうかと考えたが、頭の中にはっきりとしたものが見出せず、涼が再度この書斎を散らかした理由について私が探し物をしていたと言ったらしいことを教えてくれたが、しかしそれでもなお私にはそれが何であったか思い出せなかった。ここ数日の蛆虫絡みと思しき奇怪な出来事に神経をすり減らしていたこともあり、わずか四日ほど前の記憶であるのに、なぜかその晩のことについては
「確かに何か探していたような気がするが…忘れてもいいものだったのかもしれないな」
自身にも
さて、先ほど私は一度読み終えた本を読み返すことはないと言った。家の中の全体を平たく見渡してみたとき、おそらくこの書斎に関してはひどく荒らされてはいなかったと判断できるはずだった。確かに膨大な量の書物があったとはいえ、家具は壁沿いに並べられた書棚があるだけで数は手指で数えられる程度しかなく、立て直してしまえば物を収めるのにもこれまでのような容量不足を感じる苦労もない。そんな、比較的容易であった書斎の片付けを最後に回したのは、涼がどうしても片付けの最中に気を取られてしまうのだと言って、やりたがらなかったのだ。そういうことをしない私にも、およそ理解することは出来る。本というものには他にはない、私たちの知的好奇心に働きかける独特の魔力が存在するのだ。つまり、片付けの途中で自らに思い出があったり、また開いたことのない書物を見つけてしまったとき、特に涼は思わずその表紙を開いて読み始めてしまうものなのだ。
そして実際、しばらくの間整理と収納の作業に没頭していた私が涼の快活な動きが凍り付いたように止まっているのに気が付いた時には、すでにその魔法は実行された後であった。先ほど見つけた懐かしい一冊か、それとも読んだことのないレタリングが目に止まったのか、彼女は書を開いて読み
私はそっと書斎を出て、小休止をすることに決めてたばこを吸いに所定の場所であるリビングの窓辺に向かった。ここでたばこを
たばこに火をつけ、外に目を向けると、ついに空を覆い私の家をも飲み込んでいた白銀の分身たちが舞い降りてきているのが見えた。綿菓子のようにゆらゆらと楽しげに宙を舞い、辛うじて見える庭土の上に降りてなおその身の白を消すことのない、予想したとおりの大粒ではっきりとした雪の結晶が次々に結実し、庭を真っ白に染めようとしている。どこか懐かしい思いがして私は窓を開ける。山の中、風も
再び私は自身の中の何者かが声を上げ、その直中より
全てが白に染まる。あらゆる彩りは拭い去られ、闇をも圧しコントラストの全てを、この目が認識するものの境界をぼやかしていく。識別することを封じられた私の目は大いなる正午によって決して日の下においては見透かしうることのできないはずの、奥底へと導かれていく。そう、これはあの時に手にした感覚。
既視感が私の記憶を写し取り、囁きかける。
「探し物は見つかったんですか?」
先ほど問いかけられた、涼の声。いまは書斎で本に夢中になっている彼女の声が私の体の中でリフレインし、骨の髄に至るまで響きわたっていく。狭く浅い入り江に放たれた水の波紋のように、涼の声が、その言葉が広がり、岸に跳ね返っては複雑に、幾重にも重なっては幾度となく荒波と化して打ち寄せてくる。そしてそれは残響を繰り返すほどに、調律された弦楽器の調べを思わせる涼の声を狂わせていく。旋律はねじ切られるように崩れキーが乱高下し、抑揚すら失って、あらざる者の声へと変わっていく。
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったんですか?」
「探し物は見つかったか?」
「探し物は見つかったか?」
「探し物は見つかったか?」
響く。
重く、石を踏み砕くような声が―――
「黄の印は見つかったか―――?」
水底で打ち鳴らすクリスタルのように、終末の問いかけが私の中に共鳴する。この囁きは一体何者の声なのか。重厚にして七色に輝く鐘の響きに打たれ、根本まで燃え尽きようとしていたたばこが指の間から滑り落ちる。足下が覚束なくなり、私はよろめいて窓のサッシに手を付いたが、そのまま床に膝から崩れ落ちた。足が、手のひらが
また、あの者の気配がする。
荒々しい音を立てて書斎の扉が開け放たれ、壁に激突する。体当たりでもしたかのような勢いで涼が飛び出してきたかと思うと、彼女はそのまま慌ただしくスリッパの音を立てながらどこかへと駆けていってしまった。その血相を変えた様子にただならぬものを感じ、私はもはやまともではなくなった我が身を、手足を引き摺るようにしてやっと体を起こし、這うようにして後を追おうとした。非常な労力を用いて書斎の入り口まで到達したとき、私は床に落ちていた一冊に気が付いた。それは先ほどまで熱心に涼が読んでいた薄いレタリングの一冊であり、巻末までが開かれた状態で床に放り出されていた。首の座らない赤子の身じろぎにも劣るほどの動きで、どうにかその本を手に取ってみる。
「黄衣の王」
その表紙に記されていた文字を読み取り、私は驚愕した。なぜ、なぜこれがここに、私の家の書斎にあったのだ。こんな恐ろしい物がなぜこの場所に…?
これを書斎に置いた記憶はない。これは二度と開いてはならない書であり、決して触れてはいけないのだと心に誓ったはずだ。呪われた真言を記し、それを読んだ者を混沌の
まさか―――。絶望的な確信が頭をよぎり、私は石を詰め込まれたかのような体を強引に
やがて白の世界にも闇が忍び込む頃になり、涼は目を閉じて静かになった。眠っているのかどうかはわからなかった。
私は涼をベッドに横たえると、再び一階に降りて書斎に入った。深く暗い谷底へと引き摺り込まれるようにして床に座り、薄く、閉ざされた黄衣の王を開く。私は自らの奥底よりの
+ + +
ああ、なんとしたことだろう。この戯曲に彩られた言葉たちはいまや私の中で
私は、否、私たちは心の中に鈍く単調に語り合っていた。同じ書を読み、その全てを知るに至った時から、離れていてもなお互いの心が通じるのを感じる。影が集う気配に気付くこともなく、霧の果て、鏡のように張り詰め、波打つことを忘れてしまったかのような湖面の水の上に立ち尽くす王と仮面の妖しい双眸の見つめる先、ハリの岸辺に立つ涼と、それに寄り添う私とは、ハストゥルとカッシールダの姿であったのだろうか。
すべての謎は明らかにされた。涼が味わった罪の苦さを私自身も知るに至り、それは私の、そして涼の心をも暴いてしまったのだ。黒い教会の鐘が打ち鳴らされるのを聞き、私は声をあげて、腕と足とに熱せられ柔らかく液体に変じた鉛が注がれるのを感じた。焼き印を押され、獣のように呻り悲鳴をあげる私が見た物は、
私だ。私だったのだ。
ハスターの証を探して家を這いずり、彼女を恐怖させ悪夢を与えていたのは私自身…。
扉の影から飛び出し、涼が入ってくる。私は叫んだ。
「来るな! 涼、来てはダメだ!」
私は骨身を溶かし、もはや垂れ下がり動かなくなった足を引き摺り、まさしく蛆虫のように這って彼女から逃げようとした。書斎に逃げ場などあるわけもなかったが、ただ涼の前にこの身を晒すことだけはしてはなるまいと、私は暗がりを求め闇に消えてしまおうとした。
そんな私の思いさえ通じず、また逃げられるはずもなく涼がすがるようにして私を抱きしめて離さなかった。
「ダメだ、逃げるんだ。今すぐ、逃げてくれ。ここにいてはダメだ」
動けない私に覆い被さり、頬を伝って涼の涙が私に降り注いだ。その涙の先に、涼と目が合った。
「ごめんなさい…ごめんなさい、章人さん…」
すでに面影も、その声すらもあらざる者へと変わり、私を私自身足るものとしていたものはすべて消えてしまっただろう。しかし、蛆虫と化した私の冷たくふにゃふにゃの体にしがみつき、顔を伏せて涼は泣いた。その涙の意味を、謝罪の言葉が意図した先をも、とうに皺の中に埋没してしまったであろう耳に私は残酷な告示を知る。こんなはずではなかった。こんなことはもう望んでいなかった。あの時からもはや離れ旅立ち、未来を見つめ共に歩んでいこうとしていたのではなかったのか。幸せを、ベルトコンベアーを流れる工業製品よりも画一的な、ごくありふれた幸せを手に入れたくて、残された唯一の希望を頼りに、それにたどり着くことも築いていくこともできたのではなかったのか―――
だが、もう叶わない。黒い教会の、錆び付いた金属の門が耳障りな音を立てて開かれてしまった。ただ静かにすすり泣き、すがりつく涼に、私は最後の願いを託して
雪の降る音が聞こえる。ただ静謐だけがある。
私は、この身の中に車輪の音を聞いた。ゆっくりと、ゆっくりと、それは近づいてくる。脳裏に、輝く洞穴のような壁面の先、黒い十字を掲げたアルデバランのミサに、私は
私は再び
来る。
「逃げろ…すず、か…」
もう涼がどこにいるのかわからなかった。ただ彼女の声だけがすぐ近くから聞こえるのだけはわかり、もしかしたらなおも私にすがりついているのかもしれなかった。それが私には絶望以外の何者でもなく、十字架に
車輪の音がすぐ近くで止まる。私の体は引き裂かれ、ついにすべての感覚を失った。涼が悲鳴を上げる。闇よりの使者に先導され、現れた王は半ば宙を漂いながら、青白い仮面を傾けて彼女を覗き込み、鮮やかな黄色の
+ + +
雪は深まり、私の家はいま白く閉ざされようとしている。それらが溶けて過ぎ去り、山に緑が舞い戻ろうとする頃に、あるいはもっと先で誰かが私たちを見つけるかもしれない。
雪深く凍り付く中で何が起こったのか、人々はあらゆるものを頼りに調べ、見聞きして想像することだろう。山の中に立つ古い家の書斎で静かに眠りに就いた女性の身に何が起きて、なぜ彼女が死へと到達したのか、その理由も明らかにはできまい。この家の主がいずこへと消えてしまったのかと想像をかき立てては、
私はいつ、いつから狂ってしまっていたのだろう。 すべてはあの雨の記憶へと還っていく。あの日、霙混じりの雨の中で、襤褸になり果てた互いの心は小さな飾りとなって私のコートに残されていた。
見る者が見れば、どんな方法も論理も思い浮かばずとも、私の身がすでに人のそれでなくなるのに十分な時間の経った死体であったと思うであろう。しかしそれよりも前から、私は破滅していたのかもしれない。
ただその死体が最後に触れようと伸ばした手の先にある、その言葉こそが最後の真実であり、私がついに知り得た真意そのものであった。
Let the red dawn surmise
What we shall do,
When this blue starlight dies
And all is through.
(燃える暁に思い馳せよ、我らは何を成すべきなのか
この蒼の星明かりも耐えて、すべてが過ぎ去ろうとする時―――)
二度と目を覚ますことのない眠りに落ちた涼を見、追うこともできないことを呪っている。
この呪われた世界を見た者がすべてを封印してくれることを願ってやまない。
私はどこで過ちを犯したのか、それだけが―――
Fin...
あとがき頁へ
Dancing in the Yellow 〜黄衣の王〜を閉じる ※このページを閉じます。
↑
おもしろいと思ったら小説ページトップにあるランキングバナーの
クリックをお願いいたします。